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 私の好きな美術館〜〜碌山美術館(その2)  「中村屋とインドカリー」
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  信州の富農で、農村改革運動の指導者であった相馬愛蔵黒光(こっこう)夫妻は、後に上京し、当時は角筈(つのはず)村と呼ばれていた新宿の一角で「中村屋」というパンの製造販売業を営むようになりました。夫妻はキリスト教信仰に基づく勤勉・誠実の精神で事業を発展させるとともに、碌山を始めとする多くの若い芸術家達を支援・庇護しました。黒光は、明治の女性史に輝く一人でもあります。
  ある時、愛蔵は、九州の右翼玄洋社の巨頭頭山満から、インド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボースをかくまうよう頼まれます。ボースは、イギリス植民地であったインド独立を目指し、イギリスの提督を襲撃したことにより、イギリス政府から追われ、日本で逃走潜伏中でした。当時「大アジア主義」を唱えてアジア諸国の独立運動を支援していた頭山は、「天野屋利兵衛(歌舞伎の忠臣蔵に登場する義商)頼む」と、旧知の相馬夫妻にその庇護を求めたのです。
  一方は信州の敬虔なクリスチャン、一方は九州出身の右翼の巨頭ですが、2人は、静坐法の道場で旧知となり、思想は異なっても、お互いを尊敬しあっていました。愛蔵も、ボースに対し「猟師だって懐に飛び込んできた窮鳥を撃たないというではないか」と義憤と同情を感じていたそうです。当時、日英同盟の下で、日本政府はイギリスからボースの逮捕を求められてボースに国外退去命令を発しており、それに反してボースをかくまうということは、命がけともいえる大変なことでした。しかし、相馬夫妻は、その申し出を受け入れ、家族や従業員の理解の下で、7年間の長きにわたり、ボースをかくまったのです。そして、戦後、インドは独立を果たし、ボースはその志士として称えられ、来日した国連議長パンデイット女史やネール首相は、ボースを庇護した相馬夫妻に対し、「インド国民の名において」敬意と感謝の意を表しました。かくまっていた期間、相馬夫妻の娘とボースの間に愛が芽生え、2人は結婚します。そして、ボースが、相馬夫妻に、インドの本格的なカリーの作り方を教え、それを中村屋のレストランで提供するようになり、大きな評判となりました。今の新宿中村屋のインドカリーがそれです。3階レストラン「レガル」でその味を楽しめます。絵画に囲まれ、落ち着いた、昔ながらの中村屋を偲ばせる私の好きな店の一つでしたが、現在店舗改装中とのことです。
 アゴラ誌の著者は
 「バブルに踊った揚げ句、それに続く不況のなかで右往左往する最近の世相を見るにつけ、『一小売商夫妻』の立場にありながら、命がけで筋を通した相馬愛蔵と黒光のような人々がいたということを忘れたくないと思うのである」 と結んでいます。

   再び碌山のこと。碌山は、中村屋の近くにアトリエを構え、悲恋の人であった相馬黒光を思わせる最後の彫刻「女の像」の制作に取り組みます。そして、その完成とともに、多量の喀血をし、31歳の若さでこの世の生を終えました。安曇野の山々を見上げる碌山美術館の庭に佇むと、若き日の碌山や相馬夫妻、中村屋、ボースのことなどが思い起こされます。皆さんも是非お訪ねください。


                                               もさんじん 記

 (参考)
   「相馬愛蔵、インド独立の志士を助けた中村屋の創業者」上田温之 アゴラ 1998年秋号
   「中村屋のボース」中島岳志 白水社
 
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