判例全文 line
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【事件名】「血液型と性格」要約引用事件
【年月日】平成10年10月30日
 東京地裁 平成7年(ワ)第6920号 著作権侵害差止等請求事件
 (平成10年2月2日 口頭弁論終結)

判決
大阪府(以下住所略)
 原告 松田薫
右訴訟代理人弁護士 小林明子
京都市(以下住所略)
 被告 竹内久美子
右訴訟代理人弁護士 飯田圭
同 鳥飼重和
同 吉田和彦
東京都(以下住所略)
 被告 株式会社新潮社
右代表者代表取締役 佐藤亮一
右訴訟代理人弁護士 舟木亮一


主文
一原告の請求をいずれも棄却する。
二訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由
第1 請求
一被告株式会社新潮社は、別紙書籍目録記載の書籍を出版、販売、頒布してはならない。
二被告らは、原告に対し、各自金1100万円及び内金1000万円に対する平成6年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
三 被告らは、原告に対し、別紙広告目録記載の謝罪広告を、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の各全国版に、標題部を写植13級活字で、その余の部分を写植11級活字で、各1回掲載せよ。
第2 事案の概要
一 本件は、被告竹内久美子(以下「被告竹内」という。)が執筆し、被告株式会社新潮社(以下「被告会社」という。)が出版している別紙書籍目録記載の書籍(以下「被告書籍」という。)は、原告がその著作した「「血液型と性格」の社会史」と題する書籍(以下「原告書籍」という。)について有する著作権(複製権、翻案権)及び著作者人格権(同一性保持権、氏名表示権)を侵害したものである(氏名表示権侵害は、被告書籍第1刷についてのみ)として、原告が、次のとおり、被告会社に対し、被告書籍の出版等差止を、また、被告らに対し、損害賠償の支払及び謝罪広告の掲載を、それぞれ求めたものである。
1 差止請求(被告会社に対して)
 主位的に別紙別表1の原告書籍欄記載の表現部分(以下「原告表現部分1」という。)についての、予備的に原告書籍全部についての、同一性保持権侵害(被告書籍第2刷以降について)に基づく請求
2 損害賠償請求(被告らに対して)
(一) 著作権侵害による損害主位的に原告表現部分1についての複製権侵害、予備的に原告書籍全部についての翻案権侵害に対する慰謝料金500万円(被告書籍第1刷分について金200万円、第2刷以降分について金300万円)
(二) 著作者人格権侵害による損害
(1) 被告書籍第1刷分について
 主位的に原告表現部分1についての、予備的に原告書籍全部についての、同一性保持権及び氏名表示権侵害に対する慰謝料金300万円
(2) 被告書籍第2刷以降分について主位的に原告表現部分1についての、予備的に原告書籍全部についての、同一性保持権侵害に対する慰謝料金200万円
(三) 弁護士費用金100万円
2 謝罪広告請求(被告らに対して)
 主位的に原告表現部分1についての、予備的に原告書籍全部についての、同一性保持権及び氏名表示権侵害(氏名表示権侵害は被告書籍第1刷についてのみ)に基づく請求
二 前提となる事実(証拠を掲記した事実以外は、当事者問に争いがない。)
1 当事者
 原告は、血液型の研究等に従事し、論文、小説等の執筆活動を行っている者である。
 被告竹内は、著述業に従事している者である。
 被告会社は、書籍及び雑誌の出版等を目的とする会社である。
2 原告書籍
(一) 原告は、「「血液型と性格」の社会史」と題する著作物を創作的に表現して著作し、平成3年5月24日、これを原告書籍(以下、この著作物をも「原告書籍」という。)として訴外河出書房新社から出版した。したがって、原告は、原告書籍について、著作権及び著作者人格権を有する。
(二) 原告書籍は、第1章ないし第9章の本文部分に、「はじめに」、「おわりに」及び「注」の部分を加えた書籍である。総真数は、初版では231頁である(以下、原告書籍の頁及ぴ行の表示に特に断らない限り初版のものによる。)。(甲1)
 各章のタイトノレは、順に「「血液型と性格」のはじまり」、「血液型と民族差別」、「「血液型と気質」学説の誕生」、「古畑種基の活躍」、「思想犯の血液型」、「「血液型」大行進」、「時代の流れの変わり目」、「長崎医科大学、博士号売買事件」、「「血液型と性格」騒動の終結宣言」である。(甲1)
(三) 原告書籍には、原告表現部分1及び別紙別表2の原告書籍欄記載の表現(以下「原告表現部分2」という。)が含まれている。
3 被告書籍
(一) 被告竹内は、「小さな悪魔の背中の窪み一血液型・病気・恋愛の真実一」と題する著書を執筆し、被告会社は、平成6年4月25日、これを被告書籍として発行、販売した。
 被告竹内は、被告書籍を執筆する際に、原告書籍を参照した。
(二) 被告書籍は、全4章からなり、各章のタイトノレは、順に「血液型とは実は何か」、「血液型と性格の謎に迫る」、「美の起源」、「他者の中に自己を見つける」である。
 第2章「血液型と性格の謎に迫る」は、さらに五つの節に分けられ、各節のタイトルは、順に「フジモリ大統領はなぜ窮地に立たされたのか……O型はコレラに弱い」、「梅毒の力を知る……アメリカ大陸を解くカギ」、「「血液型と性格」の関係はなぜ"俗説。なのか……そのなかなか単純ではない歴史」(以下「被告書籍該当節」という。)、「血液型
と性格はやっぱり関係がある!……性格とはそもそもどういうことか」、「HLA・もう一つの旗印……実はこちらが主役」である。(乙1)
(三) 被告書籍には、別紙別表1の被告書籍欄記載の表現(以下「被告表現部分1」という。)及び別紙別表2の被告書籍欄記載の表現(以下「被告表現部分2」という。)が含まれている。
 また、被告書籍該当節の内容は、第2刷以降については、別紙被告書籍該当節(第2刷以降)のとおりである。被告書籍第1刑では、後記(四)の部分が異なるほか、第2刷以降の頁数表示で(以下、被告書籍の頁及び行の表示は、特に断らない限り第2刷以降のものによる。)68頁終わりから2行目の「同じく法医学者の浅田一」の部分の前に「ウソ発見器の研究で有名な、」との記述があった。(乙1)
 被告書籍該当節の中には、血液型と性格の相関に関する学説等の歴史について触れた部分、即ち「現在の血液型ブームの火付け役となったのは、」(62頁2行目)で始まり、「古川竹二が亡くなったのは、1940年(昭和15年)のことである。」(73頁3行目)で終わる部分(以下「被告書籍該当部分」という。)が含まれている。
(四) 被告書籍第1刷には、被告書籍該当部分の前に「血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか調べてみることにしたのである(『「血液型と性格」の社会史』、松田薫著、河出書房新社、などを参考にしました)。」との記載がある。
 被告書籍第2刷以降には、被告書籍該当部分の前に「『[血液型と性格]の社会史』(松田薫著、河出書房新社)という本を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう。」との記載が、該当部分の後に「以上が、松田氏の前掲書から私なりにまとめた、大正から昭和初期にかけての"血液型騒動"の顛末である。ちなみに、松田氏の著書は大変な労作で、近々改訂版が出るそうである。一読をお勧めする。」との記載がある。
三 争点
1 複製権侵害の成否
(原告の主張)
(一)原告表現部分1は、それぞれ著作物である。
 原告表現部分1は、原告が集めた素材を仮説に基づき選択し組み合わせて思想体系を描き表現したものであるから、創作性を有する著作物である。
 歴史学者は、個々散逸する史実を自己流に解釈し、表現するのであって、歴史事実の発掘や整理の仕方に基づく表現には創作性があり、著作物性を有する。 
 原告書籍は、史実に従い忠実にトレースしたものではなく、原告が血液型と性格に関する多数の文献を独自に解釈して仮説を立て、仮説に基づき仮説に合う文献を選択し、原告独自の表現で紹介しながら、原告の仮説を述べたものであるから、創作性の高いものである。
(二) 被告表現部分1は、原告表現部分1と同一又は極めて類似しているものであり、これに依拠したものであるから、被告書籍の発行、販売により、被告は、原告表現部分1についての原告の複製権を侵害したものである。
 前記のとおり、被告書籍の中で、被告自身が原告書籍に依拠したことを認めている。
(被告らの主張)
(一) 原告表現部分1は、一つずつが極めて短く、ほとんどが事実の簡潔な記載にとどまっているから、そもそも著作物には当たらない。
(二) 被告表現部分1は、原告表現部分1に全面的に依拠したものでもないから、被告は原告の複製権を侵害していない。被告竹内は、史実の調査について原告書籍を参考にしたものの、それのみではなく、他の多数の文献を参考にしたものであり、専ら原告書籍に全面的に依拠したものではない。
(三) 被告表現部分1は、原告表現部分1と同一又は極めて類似しているものではないから、被告は原告の複製権を侵害していない。
 原告書籍は、史実を対象とするものである。歴史的事実は、万人の文化的共有財産であり、事実自体に独占権を認めることはできない。被告表現部分1は、原告表現部分1と同一史実を対象とする部分である。
 原告書籍の叙述形式は、史実としての性質上原告独自の創作的表現が多くなり得ないという客観的制約に加え、従来公表されている事実や原告が独自に収集した資料から再現した事実を一貫して厳密かつ忠実にありのまま表現した形式をとっており、原告独自の創作的用語は少なく、通常の日常用語によって表現されており、著作物性は強くない。
 史実を対象とする著作物に広く修正増減の保護を与えることは、史実自体に著作権としての独占権を与えるに等しい。したがって、このような著作物の同一性判断においては、表現形式において各記述部分が全て同一か、大部分が同一であることを基準とすべきである。原告表現部分1と、被告表現部分1は、全体としては明らかに異なっており、同一性はない。表現形式がほぼ同一であるごく一部は、歴史的事実か、原告以外の第三者の表現であって、原告の創作性ある表現ではない。
 後記のとおり、原告書籍と被告書籍は、叙述内容、テーマが全く異なるから、原告の著作権者としての財産的権利を損なうものではない。
2 翻案権侵害の成否
(原告の主張)
(一) 被告は、原告書籍全体を無断で要約して、被告表現部分2を作成して、原告書籍全体についての翻案権を侵害したものである。
 依拠については、前記のとおり。
(二) 被告書籍によって原告書籍の存在は容易に推知できるものである。
 前記のとおり、原告書籍は、単に史実に従い忠実にトレースしたものではなく、原告の仮説を述べたものであるから、創作性の高いものである。具体的には、原告書籍は、原告の仮説に基き、ABO式血液型研究の発展の大きな要因とたった欧米科学思想の探究、欧米科学思想を基にしながらもそれらがいつの問にか消え、血液型と病気や性格の研究となって賜わった日本の科学史の一部分の探究、日本と同様に、時間と共に人種差別の科学思想の背景が消えた欧米の科学史が記述されたものであり、他に同様の書籍はない。
 素材である歴史的事実自体は著作物として保護の対象とたるものではないが、血液型と性格の社会史の分野の素材は膨大なものであり、原告が集めた素材はその一部であり・原告は更にそれから選択して原告のアイディアに素材を組合わせ、仮説を立てて表現したものであるから、仮に両書籍が同一の史実を扱ったものであるとしても、必然的に類似の表現となるものではなく、被告書籍が原告書籍の翻案に当たることに変わりはない。
 原告書籍が表現した主旨、テーマの一番大事な箇所は、「第一線の医学者たちの関心事が、やがて社会と関わり、どのような研究過程をとり、どのような社会的運命をたどったのだろうかということ」(原告書籍4頁2行目ないし3行目)であるが、これは被告書籍のテーマと同一である。また、原告書籍は、免疫学思考に触れ、これをテーマとしている(原告書籍151頁、215頁)。更に、原告書籍は、第4章「古畑種基の活躍」、第9章「「血液型と性格」騒動の終結宣言」の2章を古畑の処世術、威光についての叙述に当てていることからも明らかなように、いたる箇所に日本の学会の体質について記載している(原告書籍32頁8行目ないし16行目等)。したがって、原告書籍と被告書籍のテーマは同一である。
(三) 被告書籍の叙述を個別に検討する。
(1)被告書籍56頁15行目ないし57頁16行目について
 王丸以下の記述につながる表現、筋の運びは、原告書籍と同一である。血液型と性格と病気の社会史は、古川竹二を中心としてなされたものであり、王丸勇、長沢政隆、藤井綬彦の論文は、中央の学会、マスコミで取り上げられることなく埋没させられた研究であるが、原告は、精神病の多くの論文中から中庸な意見を述べている王丸のものを選び、王丸が選んだ長沢、藤井の論文、データを読み、それらに信懸性があると判断し、原告書籍に表現する当たり、原告独自の簡易な数値を用いたものである。
 昭和初めの約10年間に一大血液型ブームが起きたことは、客観的な歴史的事実ではなく、原告の思想の独創的表現である。他の文献によれば、血液型が流行した実質的期間は6年ほどとされている。
(2) 原告書籍「はじめに」対応部分被告書籍の「「血液型と性格」の関係はなぜ"俗説。なのか……そのなかなか単純ではない歴史」の設問の立て方は、原告書籍の設問の立て方と同一である。「血液型と性格」の批判者の「感情的」側面を捉える考え方は、原告の創作であり、この設問があればこそ「歴史的事実」の裏に隠された問題を引き出すことができる。原告が隠された問題として挙げた2点(差別、世俗的学閥争い)を被告竹内は「タブー」と言い換え、原告書籍が創作した隠された歴史を被告竹内は以下に要約している。
(3)原告書籍第1章対応部分
 原来復が「血液型と性格」の最初の発言者であるかどうかは、原告が調べた限り原告のみが特定しており、彼がドイツで血液型を学んだということも推察されるのみであり、この問題を掘り下げずに他界しだということも原告の推測、創作であって、歴史的事実ではない。被告竹内が自ら調べて書いたものでないことは明らかである。
(4)原告書籍第2章対応部分
 白人の優位を証明しようとした欧州の血液型研究というのは、原告の「嫌な感じ」に基づく推測に過ぎず、原告書籍の創作である。個々の研究は歴史的事実として残っているが、日本人が劣等だとはどこにも書かれていないし、研究が日本で盛んになったことがそれに感情的に反発したせいであるという客観的事実もない。民族差別に対する関心より個人の資質の差に関心が向く日本人の性向を持ち出して「血液型と性格」の本題につなげようとしたのも、原告の日本人観の表明であり、創作である。
(5) 原告書籍第3章対応部分
 原告が古川論文「血液型による気質の研究」を要約した部分は、「積極的」、「消極的」の二つに絞って名論文に対する評価、論評を表現したものであり、独自の著作物である。血液型採取事件について最後に触れる構成は、これを引き金に学閥の生々しい抗争の歴史ストーリーを次に展開しようという原告の意図によるものであり、被告竹内の文章が同一の文脈になっていることは、単なる歴史的事実の叙述とはいえない。
(6) 原告書籍第4章ないし第6章対応部分
 古畑種基が古川の擁護に回った理由としての個人的憤懣、日本の学界に対する不満等は、原告の推測した創作であり、マスコミを動員した人間関係も、状況証拠からの原告の推測であり、浅田一を加えた3人をこの現象の狂言回しとして位置づげたのも、原告が様々な資料から当時の雰囲気を分かりやすく描き出し、かつ、最終的に古畑に的を絞っていくために組み立てた創作の歴史ストーリーである。
(7) 原告書籍第7章対応部分
 歴史的事実としては、古川批判が様々な形てされ、誰がどう批判したかという文献があるだけである。その古川批判の裏に古畑、浅田批判が隠されていただろうという推測から、彼らの門下からの批判に焦点を当てることによって、マスコミで活躍する両学者の追い落としという隠れたストーリーを組み立てたのは、原告の創作である。
(8) 原告書籍第8章対応部分
 長崎医科大学博士号売買事件は客観的な歴史的事実であるが、その裏に血液型ブームに乗る浅田以下東大閥の追い落としが画策されたというストーリーは、原告の創作であり、学閥抗争から来た浅田の辞任があたかも古川と血液型ブームの終焉につながるストーリーも、原告が予め血液型ブームの主役を3人に絞って描こうとした創作から導かれるものであり、著者の思想、感情次第でどのようにでも描けるものである。
(9) 原告書籍第9章対応部分
 同章で原告が創作してきた3人の運命が描かれるが、特に東大教授に就任した古畑を血液型ブームの幕引きの敵役に仕立てたストーリーの終わり方は、「はじめに」で記したとおり、「研究者がどんな運命をたどらざるをえなかったかというドラマ」であり、東大という学閥に君臨する者への原告の思想、感情の表現として創られたものである。したがって、被告書籍の「しかし、ひょっとすると血液型学の権威、古畑種基の威光がまだ残っているのかもしれない(古畑が亡くなったのは1975年)と「血液型と性格」の歴史を垣間見た私には思えなくもないのである。」という右部分の結語は、原告書籍の思想、感情の表現に感応した感想に過ぎず、また、被告竹内の右部分での設問「彼らにとって血液型と性格について論ずることはタブーのようなものではあるまいか、もし血液型と性格との問に何か関係があると思っているような素振りを見せたたら、即刻学会から永久追放されかねないのでないのかとそれはたぶん考えすぎというものだろうが私には感じられるのである。」というのも、原告書籍読了後得た感想に基いて創られたものと考えられる。
(被告らの主張)
(一) 原告書籍、被告書籍ともに、血液型と性格の相関関係についての同一の史実を扱ったものである。そして、原告書籍は、歴史上の事実又は既に公にされている先行資料に記載された事実が大部分を占める著作物である。したがって、原告書籍、被告書籍問には、集められた素材である歴史的事実の同一性は当然のこととして重複することとなる。原告が、多大の時間、労力等を費やして、それらの事実を発掘したことは尊敬に値する業績であり、被告竹内もそれ自体被告書籍で認めているが、その素材自体が著作物として著作権法の保護の対象となるものではない。
 それらの素材である事実に基づく内面的表現形式以外の原告書籍の内面的表現形式は、次に述べるとおり、被告書籍の内面的表現形式においては維持されていないので、翻案権侵害は成立しない。
 依拠については、前記争点1の(被告らの主張)(二)のとおり。
(二) その素材をトレースすることによって、原告書籍が表現した主旨・テーマは、その「初めに」原告自身で述べられているとおり、「(私がこの問題の歴史をもう一度トレースしてみる気になったのは、)その見えにくい差別の歴史を押さえること。」であり、付随的に「一つのアイデア、「血液型と気質、性格には、何らかの関係がある……」と発案した人物像とその背景。」、「人間の気質と性格を科学的に判定できるかもしれないという魅力的なテーマに関わった研究者が、どんな運命をたどらざるをえなかったというドラマの魅力もあった。」である。
 他方、被告竹内がその素材をトレースすることによって、被告書籍において表現した主旨・テーマは、血液型と性格の相関を肯定する被告竹内が、その論を展開する前提として、現在学会でこれをタブー視する定説を紹介するとともにこれを覆すために、古畑の威光、ひいては現在の学会の体質を引きだそうとすることにあり、原告書籍の差別の歴史、人間ドラマとは全く視点が異なる。
(三) 被告書籍全体の構成における被告書籍該当部分の位置づけからも、原告書籍と全く異質のものであることが明らかである。
 現在、生物学で最も注目されている話題の一つは、免疫、すなわち、自己と他者を区別し、後者を排除する生理的な仕組みである。そこで、被告竹内は、まず、プロローグで、免疫の仕組みとカッコウなどの鳥で見られる托卵という現象とのアナロジーに着目して、免疫の仕組みを解読し、同時に被告書籍全体のテーマが免疫であることを明言している。
 続いて、免疫の問題の中で読者の関心が最も高いと思われる血液型の話題に入る。血液型とは免疫の型であることを解説し(第1章「血液型は何の違い」)、血液型(ABO式)と病気に対する低抗力との相関についての話題について述べる(第1章「永田町老人が元気な理由」、第2章「フジモリ大統領はなぜ窮地に立たされたのか」、第2章「梅毒の力を知る」)。このような実例の後に、血液型と性格の間に相関があっても不思議はないとする自身の論を展開する(第2章「血液型と性格はやっぱり関係がある!」)。本件で問題とされている被告書籍該当節は、その前に、なぜ血液型と性格との問に相関があるとする考えが俗説として学会で徹底して否定されているのか、タブーのような気配さえ感じられるので、その歴史を検証したものである。
 続いて、ABO式血液型以外のもう一つの重要な免疫の型であるHLAについて説明する(第2章「HAL・もう一つの旗印」)。第3章では、血液型の話題を離れ、被告竹内の専門分野である動物行動学で、最もホットな話題である美の起源の問題に移る。美とは、ウイルス、バクテリア、寄生虫などの寄生者(パラサイト)に対する低抗力を示す手段として進化してきたのではないかというパラサイト仮説の<「の」は「を」の誤?>紹介し、これを使って男の足の長さや女の色の白さを被告竹内なりに説明しようと試みる。第4章は、自己と他者を区別するという免疫本来の意味から転じ、逆に寄生者(他者)が宿主(自己)の一部になってしまい、共生関係を成立させた例(「ウイルス進化論」、ミトコンドリアの起源)などに話が発展する。そして、エピローグ的存在である第4章最終セクションでは、恋愛の過程とは、最終的には相手との間に両者の免疫的混合である子を生ずことで、その際両者が免疫的にいかに類似しており、適合的であるかが問題となることが示される。つまり、恋愛とは他者の中に自己をみつける過程でもあるわけで、結局、血液型で相性が分かるという「俗説」にもまんざら根拠がないわけではないということになり、第1章、第2章の議論に話は戻る。
 このように、被告書籍全体の趣向は、免疫という問題を血液型、病気、恋愛という一見無関係とも思われる三つの視点から論じたものであり、その中の一部として該当部分が存在するものだから、原告書籍とは全く異質のものである。
(四) 被告書籍のうち原告が指摘する該当部分は、56頁15行から57頁16行まで、60頁1行から61頁末行(1刷)又は62頁1行(2刷以降)まで、63頁2行(1刷)又は63頁3行(2刷以降)から73頁末行までである。その分量は、原告書籍の該当部分の分量である231頁よりもはるかに少ないものである。このことからも明らかなように、被告書籍該当部分においては、原告書籍の該当部分の叙述の順序、構成、文章表現等が相当程度に具体的に維持され、これを相当程度に具体的に直接感得できるものとは到底いうことができない。
 被告書籍の叙述を個別に検討する。
(五) 被告書籍56頁15行目ないし57頁16行目について
(1)O型が梅毒に強いという説を、フォーゲルが唱えたこと、王丸勇、長沢政隆、藤井綏彦などの研究でも、O型が梅毒に強いという結果が出ていること、昭和の初めのおよそ10年間に一大血液型ブームが起きたことは、歴史上の事実であり、客観的事実であって、原告の独創性を有する部分ではない。
(2)原告書籍「はじめに」対応部分「血液型と性格」の批判をする者の「感情的」側面を捉える原告書籍の設問の立て方が原告の創作であるというが、多数の心理学者の批判の仕方が感情的であることは客観的事実である。また、原告は、血液型と性格の関連を論ずる者も批判者もどちらも感情的であるとしているのに対し、被告竹内は、批判者(その中でも心理学者)についてのみ感情的であると指摘している。更に、原告は、両者が感情的であることと、差別、世俗的学閥争いを結びつけ、被告竹内は、心理学者が感情的であることとタブーとを結びつけている。
(3)原告書籍第1章対応部分
 原来復が「血液型と性格」についての最初の発言者であること、原がドイツで学んだことは、他の文献にも記されている。原がこの問題を掘り下げずに他界したことは、先駆的論文の存在に反し他に発表された論文がないという歴史的事実からの当然の推測である。原告の創作性が認められるとすれば、原が掘り下げなかった動機を差別の歴史の一環としてとらえている点であるが、被告書籍ではそのような捉え方はしていない。
(4)原告書籍第2章対応部分
 欧州の血液型研究が白人の優位を証明しようとしたことは、先行資料が存在し、客観的事実である。血液型研究が日本で盛んになった理由がそれに反発したためであることも、先行資料がある。民族差別に対する関心より個人の資質差に関心が向く日本人の性向を持ち出して「血液型と性格」の本題につなげようとした点は、仮に原告の創作だとしても、被告書籍では、データが取れるとなると別である学者根性から研究が盛んになったとの筋道であって、基本的な筋、構成が異なる。
原告書籍第3章対応部分
(5)  古川論文は、気質の基調を「積極的」「進取的」と「消極的」「保守的」との二つに分類しており、これを原告が要約する際に、「積極的」、「消極的」の二つに着目することは、何ら創作的なことではない。血液型採取事件については、原告書籍がこれを学閥抗争の歴史ストーリーを次に展開しようという意図でとらえたものとは読みとれない。むしろ、「「血液型」を無視して巧妙な書き方をしたのは、古川のような学者を認めたくないという新聞側の意図があったのであろうか」とあるように、原告書籍はここでも差別の一環として血液型採取事件を捉えている。他方、被告書籍は、古川の名を一躍世間に知らしめる客観的な歴史的事件として捉えるに過ぎない。
(6) 原告書籍第4章ないし第6章対応部分
 古畑の研究が認められなかったことは、客観的事実である。古畑が古川擁護に回った理由としての個人的情懣は、古畑自身の論文でも述べられており、また、原告書籍はこの点を学閥抗争を描く一環として記述されているが、被告書籍では単なる動機として捉えている。マスコミを動員した人間関係には被告書籍は触れていない。浅田を加えた3人をこの現象に位置づけたことも、古川学説の創始者古川を中心に、古学説支持の筆頭格浅田、古川を側面で援助している我が国血液学の第一人者、法医学界の最高権威古畑という、類書で必ず触れられている代表的な3人を中心に据えているに過ぎず、原告の独創ではない。また、原告書籍は、三者間を中心とした学閥抗争を描こうとしたものであるが、被告書籍では、中心人物はあくまで最終的に転向した古畑である。
(7) 原告書籍第8章対応部分
 長崎医科大学博士号売買事件の裏に血液型ブームに乗る浅田以下東大閥の追い落としが画策されたというストーリーは、先行資料が存在する。学閥抗争から来た浅田辞任が、あたかも古川と血液型ブームの終焉につながるストーリーも、ブームの終わる昭和8年当時に奇しくも、古川学説支持の筆頭格浅田の失脚、古畑の「血液型研究」による転向、古川学説批判が噴出した日本法医学会第18次総会が重なったという歴史の経過としての客観的事実を述べているに過ぎない。
(8) 原告書籍第9章対応部分
 古川、浅田、古畑3人の運命は客観的な歴史的事実である。東大教授に就任した古畑を血液型ブームの幕引きの敵役と仕立てたストーリーも、古畑の学会での威光、権威を考えれば、原告が創作したものではあり得ず、他の文献でもそのように述べられている。
3 同一性保持権侵害の成否
(原告の主張)
 被告書籍は、原告が原告書籍について有する同一性保持権を侵害するものである。
(被告らの主張)
 否認する。
4 氏名表示権侵害
(原告の主張)
 被告書籍(第1刷)は、原告が原告書籍について有する氏名表示権を侵害するものである。
(被告らの主張)
 否認する。
5 引用による利用の抗弁及びやむを得ない改変の抗弁の成否
(被告らの主張)
(一) 被告書籍の該当部分は、「やむを得ない」(著作権法20条2項4号)要約(的)「引用」(同法32条1項)として、原告書籍についての原告の翻案権及び同一性保持権を侵害しない。
(二) 要約(的)引用(以下、主張整理において、単に「要約引用」という。)の社会的必要
性及び一般性等
 今日、一般市民の教育水準が向上し、学者、研究者の学問研究の内容及びその当否等を分かりやすく説明した書籍に対する一般市民の需要も増大してきた。これに応じて、書籍中で他の学者、研究者の学問研究の内容を紹介、批判する場合、当該学問研究の原文は、膨大な分量だったり、難解だったり、不必要な部分を含んでいたりすることが通常である。
 このような場合に、いちいち括弧付きで原文そのものを引用しなげればならないとすれば、引用者としは、極めて煩瑣な作業を要し、読者としても、甚だ読みにくく、被引用者としても、ぶっ切りにより文脈が正確に反映されなくなる。したがって、要約引用することができないとすると、実際上十分な紹介、批評ができなくなる。
 逆に、要約引用ができれば、引用者が自分の理解に基き自分の言葉で一般市民を対象に必要な部分を必要な分量で分かりやすく引用できるため、当該学問研究を十分に紹介、批評されることになり、一般市民に学術的知識を普及させ、これにより学術的文化を幅広く発展させることができるとともに、当該学問研究の内容及びこれに従事した学者や研究者に対する一般社会の評価も高まることとなり、これにより、学問研究が一層発展するインセンティブが付与されることにもなる。
 要約引用は、このような強い社会的な必要性に裏付けられ、特に学問研究及びこれに隣接する分野において、今日では広く行われている。
 さらに、学問研究及びこれに隣接する分野での事実的表現、特に歴史上の事実及び既に公にされている先行資料に記載された事実に基く表現については、当該事実の発掘、収集等に多大な時間、労力を要することから、著作権ないし著作者人格権による保護を求める要請が高まってきている。
 このような事情を考慮すると、後述のような要約引用を認める解釈をとるべきである。
(三) 要約引用への該当性
(1) 著作権法32条1項にいう「引用」とは、引用著作物と被引用著作物との間に明瞭区分性と主従関係があることを意味する。
 要約引用も、学問研究及びその隣接分野においては、右要件を満たす限り、「引用」に該当するものと解すべきである。右条項の趣旨は、著作物の引用が一般に広く行われていることに鑑み、引用の本来的性質からして、著作物の公正な引用を適法なものとすることにあるところ、学問研究及びその隣接分野における要約引用も、前記のとおり、強い社会的必要性に裏付けられ、今日では広く行われるものだからである。
 著作権法43条1号は、「翻案」により著作物を利用し得る場合を規定する一方、同条2号は、同法32条1項による利用ができる場合は、「翻訳」による利用が可能である旨規定するが、右のような要約引用は、同法43条全体の類推適用により著作物の利用ができるものと解すべきである。同条の趣旨は、著作権の制限規定により著作物を利用し得る場合のうち、著作物を翻訳、翻案などして利用し得るとしても制限規定の趣旨をこえないと制定当時に考えられた一定の場合において、翻訳、翻案等による制限規定に従った利用を可能とするものである。そして、前記の要約引用の社会的必要性、一般性によれば、同法32条1項の趣旨を超えるものではない。また、同法43条1項は、同法35条の教育目的による利用の場合に翻案による利用を可能としている。そして、前記のとおり、今日、学問研究及びその隣接分野において、要約引用が、一般市民に学術的知識を普及させ、これにより学術的文化を幅広く発展させるという重要な教育的機能を果たすようになったのであるから、むしろこれを許容することが同法43条の趣旨に沿う。
(2) これを本件についてみると、次のとおり、被告書籍の該当部分は、要約引用の要件を満たす。
 被告書籍第2刷には、該当部分の前に「『[血液型と性格]の社会史』(松田薫著、河出書房新社)という本を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう。」との記載が、該当部分の後に「以上が、松田氏の前掲書から私なりにまとめた、大正から昭和初期にかけての"血液型騒動。の?末である。」との記載があるから、被告書籍の全体と該当部分が明瞭に区別して認識できることは明らかである。
 該当部分は、免疫の問題を血液型、病気、恋愛という一見無関係にも思える三つの視点から論じた被告書籍全体の独創的た趣向中の一部において、血液型と性格の相関を肯定する被告竹内が、その論を進める前提として、これをタブー視する現在の学会の定説を紹介し、これを覆すために、古畑の威光、ひいては現在の学会の体質を引き出すという流れの中で、単に血液型と性格の歴史をまとめたものに過ぎず、被告書籍全体に比して極めて僅かな分量にしか過ぎない。したがって、被告書籍全体と問題の部分の間に、前者が主、後者が従の関係があることが明らかである。
 該当部分の前後の右記載から、著作権法48条所定の出所の明示があることも明らかである。
 また、被告書籍第1刷についても、該当部分の前に「血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか調べてみることにしたのである(『「血液型と性格」の社会史』、松田薫著、河出書房新杜、などを参考にしました)。」との記載がある。この程度の記載でも、歴史上の事実及び既に公にされている先行資料に記載された事実に基く表現中の事実に関する部分を発掘した者の努力と貢献に酬いることができると共に、興味を抱いた読者は出所明示に従い原著作物に当たることになるので、明瞭区別姓及び出所表示の要件を満たすと考える。
(四) やむを得ない改変への該当性
 学問研究及びその隣接分野における要約引用は、学問研究の著作物の膨大さ、難解さ等の性質、その紹介、批評という利用目的、及び要約という態様そのもの等に照らして、著作権法20条2項4号所定の「やむを得ない」改変に当たるものと解すべきである。同項1号は、教育目的をやむを得ないものとして例示しているところ、前記のとおりの要約引用の教育的機能に照らせば、右解釈は同項の趣旨に沿うものである。
 したがって、被告書籍の該当部分は、原告書籍についての原告の同一性保持権を侵害するものではない。
(原告の主張)
(一)要約引用は、社会的に必要でもないし、一般的に行われてもいない。
 他人の広範囲の著作物を要約引用して利用することは、原著作物の著作権者の経済的利益の減少をもたらし、外面的表現形式を改変され往々不正確に要約されることは、著作者にとって多大な精神的苦痛をもたらす。
 膨大であったり難解であったりする学問研究の内容をその論文等の著作者以外の者が原著作者に無断で要約して紹介するということは、一般市民に研究内容等を誤って伝えるおそれが大であり、必要性よりも弊害の方が大きい。現に被告竹内は他の学者等から厳しく批判されている。一般市民のために他人の学問研究の著作物を要約して紹介する意欲に燃えるのであれば、その著作者、著作権者の許諾を得れば足りる。許諾を得られないということは、著作者が要約者の力量を信用していないからである。
 引用者は経済的利益を始め何らかの利益があるから引用するのであり、著作者、著作権者の利益を害してまで、括弧を付けない要約引用を認める必要はない。括弧を付けると読みにくいというのであれば、巻末に注として引用文献を記載するなど方法はいくらでも考えられる。
 被告が要約引用の一般性を立証するためとして提出した書証は、原著作物の著作者、著作権者の許諾の有無も明らかでなかったり、外国の著作やかなり古い著作を要約しており著作権者等の許諾がなくても異議を唱えにくいものであったりするなど、要約引用の一般性を立証するものではない。
(二) 被告書籍の該当部分は、著作権法所定の引用による利用に当たらない。
(1) 著作権法43条は、引用して利用できる場合には、翻訳しての利用は認めるが翻案しての利用は認めないと、1号、2号に分けて明記しているから、各号を越えての類推適用などあり得ない。
 同法32条は、引用の要件として「引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」としているから、学説、論文等を全部要約して引くことは、これに当たらない。
 同法43条1号は、同法33条ないし35条の場合に翻案による利用を可能と定めるが、右各条は、教育目的の場合を厳格に限定し、同法33条、34条の場合には相当額の補償金も手当されているから、一般市民に学術知識を普及させるために他人の著作物を翻案して利用することができると解することはできない。
 原著作権者等の努力と貢献は、出所明示だけで報いられるというようなものではない。
(2) 本件についてみても、被告書籍該当節は、被告書籍の他の部分と関連なく独立しており、ここがなくても被告書籍は成り立つ。
 そして、右部分は、ほとんど原告書籍の要約であるから、引用著作物が主、被引用著作物が従、との関係は到底認められない。
 被告書籍第1刷において、被告書籍該当部分の前に「血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか調べてみることにしたのである(『「血液型と性格」の社会史』、松田薫著、河出書房新社、などを参考にしました)。」との記載があるが、以下の記述の全てが原告書籍の翻案であるという意味にはとれず、あくまで被告竹内が調査した結果をまとめたという趣旨にしかとれない。
(三) 被告書籍の該当部分は、著作権法所定のやむを得ない改変に当たらない。
 著作権法20条2項1号は、用字、用語の変更のような学校教育の目的上やむを得ない改変に限って認めるものであり、同項4号は、複製や放送の技術的手段の制約等によってやむを得ない改変に限って認めるものであるから、長範囲にわたる他人の著作物の要約引用は、同項に該当しない。
6 損害
(原告の主張)
 被告竹内は、故意により、被告会社は、故意又は過失により、原告の著作権(複製権又は翻案権)及び著作者人格権(同一性保持権、氏名表示権)を侵害し、これにより原告は、前記一2のとおりの損害を被った。
(被告らの主張)
 否認する。
第3 争点に対する判断
一 争点1(複製権侵害の成否)について
1 原告表現部分1の各部分が著作物の一部として保護される創作的表現を有するか否かについて判断する。
(一) 原告書籍「「血液型と性格」の社会史」の全体が著作物であることは前記のとおりであり、原告書籍全体が一つのまとまりのある1個の著作物である(甲1)ところ、原告表現部分1は、それぞれ原告書籍の一部分で、1文又は数個の文からなるものである。1個の著作物の一部分についての複製権の侵害が成立し得ることは当然である。しかし、著作物が法律上保護されるのは、思想又は感情の創作的な表現であることによるのであり、全体として見れば、思想又は感情の創作的な表現を含む作品として著作物に該当するものの一部であっても、当該部分には思想又は感情の創作的な表現が含まれない部分を複製することは、その著作物の著作権を侵害するものではない。即ち著作物の一部の複製が複製権の侵害となるためには、右部分が思想又は感情を創作的に表現したものであることが必要である。
 そして、著作権法はあくまで表現を保護するものであって、思想や事実そのものを保護するものではないから、右部分に現われた思想、事実を表現する場合に誰が表現しても同様のものになるような場合は、右部分の表現には創作性がないものと解すべきである。
 また、他人の研究論文等を紹介する部分については、紹介の仕方に極めて独創的なものがあるような場合を除いて、紹介者の創作的表現とはいうことができないものと解すべきである。
(二) このよう見地から検討すると、原告表現部分1は、基本的に、他人の研究等の資料に基いて、その内容を紹介している部分であり、しかも、極めて短い表現であって、そのほとんどについて、表現に創作性があるとは認め難く、その中に原告の創作的表現か現われているとかろうじて認められるものは、B、 ◯27のみであって、他は著作物の一部として保護される創作的表現を有しないというべきである。
2 さらに、原告表現部分1のB、◯27とそれに対応する被告表現部分1が実質的に同一のものか否かについて検討すると、Bについては、被告表現部分1は、単に、原が1911年にドイツのハイデルベルク大学に留学し、本場の血液学を学んで帰国した、と客観的に事実を述べているだけであり、原告書籍の表現の特徴は何ら維持されていないし、◯27についても、浅田、古川、古畑について触れている点は共通しているものの、3者についての叙述の順序、具体的な表現は異なっているから、結局、それらの部分について実質的に同一のものということはできない。
3 したがって、原告の複製権侵害の主張は理由がない。
二 争点2 (翻案権侵害)について
1 まず、被告表現部分2のうち被告書籍56頁ないし57頁について判断する。原告は、右部分は、その下欄に記載された原告表現部分2のうち原告書籍1頁、60頁、120頁ないし122頁、123頁ないし126頁、196頁、198頁、215頁ないし216頁と表示された部分についての翻案権を侵害するものである旨主張する。
(一)(1) 原告書籍1頁には、1930年代にも血液型と性格を結びつけて考えることの大流行があったことが記載されている。
 原告書籍60頁には、「昭和初年の「血液型」ブームはこの論文から」との見出しを立てて、昭和2年に古川が「血液型による気質の研究」という論文を発表し、これが今日まで「占い」として話題を呼んでいる「血液型と性格」の原型になった旨記載されている。
 原告書籍123頁ないし126頁には、古川学説自体の持つ通俗性は、きっかけさえあれば大衆の俗耳に飛び込んでいく性格のもので、昭和5年には新採用者の性格を知るため履歴書に血液型を記入させるようにたった例が紹介され、浅田一博士が血液型検査の希望者が多いと語ったことが記されている。
 原告書籍196頁及び198頁には、古畑が昭和12年に血液型と性格の関連を否定する論文を発表したことを指摘する。
 原告書籍215頁ないし216頁には、フォーゲル等の論文を挙げた後、「もちろんといってよいのか、これらの論文には古川竹二をはじめ、日本人論文は見られない。」と記載されている。
(2) 被告表現部分2のうち、昭和初めの血液型ブームについて触れている部分は、「フォーゲルはたぶん知らたいだろうが、知ったら大喜びしそうな研究がある。昭和初期の日本で血液型と梅毒との相関が非常に詳しく調べられているのである。昭和の初めのおよそ10年間、学界のみならず一般人をも巻き込んで一大血液型ブームが起きたことがある。その際、当時は精神病者とみなされていた、梅毒末期の麻痺性痴呆の患者がたまたま調査の対象となったのである。」というものである。
 これを前記(1)の原告書籍の記述と比べると、そもそも対応個所として指摘されている原告書籍の記述が一連のものでなく頁が隔たっているばかりか、記述の順序も異なり、具体的な表現の詳細さも全く異なるものであるから、全体として類似しているとは到底いうことができない。
 これに対し、原告は、昭和の初めの約10年間に一大血液型ブームが起こったことは歴史上の客観的事実でなく、原告の独創であるから、翻案権侵害に当たる旨主張するが、仮にそのことが原告の独創であっても、それはあくまで事実として記述された事柄又は思想そのものに過ぎず、それを被告表現部分2の内右に認定したように記述しても、翻案権の侵害に当たるものではない。
(二)(1) 原告書籍120頁ないし122頁は、王丸、長沢、藤井の研究について、具体的なデータを表にしながら、叙述している。
(2) 被告表現部分2のうち、王丸らの研究に触れた部分は、王丸、長沢、藤井の当時の所属大学、調査対象となった麻痺性痴呆患者の入院先や数、その中の各血液型の率等の研究内容の骨子、王丸が麻痺性痴呆患者にはO型が少なくAB型が多いと述べていたことについて記述している。被告の記述中のデータは、原告書籍121頁の表に記載されたデータの一部と同一である。しかし、その原告書籍121頁の表の内下方のものは、長沢、藤井の各研究及びこれらも引用した王丸の研究中に既に記載されているものの小数点以下一桁まで表示されているパーセントの数値を整数値にしたものであることが認められる(乙3、15、16)から、原告の創作したものとはいえないし、そもそも調査結果のデータであって著作物ということはできない。そして、被告表現部分2の王丸らの研究に触れた部分の数値以外の部分も、単なる事実に過ぎず、これらの記述が原告書籍に依拠していたとしても、翻案権の侵害には該当しない。
 原告は、右王丸らの各論文が従前取りあげられなかったこと、原告の独自の考えに基づいて、数値を簡易に表現したことから、翻案権侵害に当たる旨を主張するが、仮にそうであっても、従前取りあげられなかった論文に記載された数値やその論文に述べられている考察が原告の著作権の保護の対象となるわけではないし、小数点以下まで記載されたパーセントの数値を整数値に整理する程度の処理の結果が原告の創作的表現であるとは認められないから、原告の主張は採用できない。
(三) したがって、右部分についての翻案権侵害の主張は認められない。
2 次に、被告表現部分2の61頁ないし73頁を含む被告書籍該当部分について検討する。
(一) 原告書籍の内容の被告表現部分2との対比を念頭に置いてまとめた要旨を章ごとにみると、次のとおりであると認められる(甲1)。
(1) はじめに
 10年か前に、「血液型占い」が大流行したが、そのきっかけは「血液型人間学」(能見正比古著)という本がつくった。1970年代以降の「血液型占い」の大流行は1930年代の大流行の焼直しにすぎない。「血液型と性格」ブームに対する批判論がマスコミや学術雑誌にまで登場するようになったが、賛否両論のどちらも感情的である。なぜこんなに感情的になるのだろう。なぜ歴史事実をはっきりいわないのだろう。何となく分かる気もする。私がかって、1930年代の大流行を調べたとき、「嫌な感じ」を抱いたからだ。この「嫌な感じ」は、一言で言うと「差別」だ。つまり血液型にはかつて、白人が有色人種を差別するために使い、陸軍が兵隊の能力差別として使い、警察が犯罪者の差別として使い、学校が生徒の能力差別に使った、という歴史があるのである。「血液型と性格」の問題の歴史をもう一度トレースする気になったのは、差別の歴史を押さえること、「血液型と気質、性格には何らかの関係がある」と発案した人物像とその背景、医学者の関心事が社会と関わりどのようた社会的運命をたどったのか、人間の気質と性格を科学的に判定できるかも知れないという魅惑的なテーマに関わった研究者がどんな運命をたどらざるを得なかったかというドラマの魅力、があった。生まれたアイディアが俗耳に入りやすいことだと、世間が絡んできて、派閥的なものが関わってくる。血液型と性格や病気についての初めは学問的アイディアも、当時の学閥の争いに巻き込まれ、学閥に軍、マスコミが絡み、賛否両論に分かれて争いを演じた。
(2) 第1章「血液型と性格」のはじまり
 1911年(明治44年)原来復という医師がドイツのハイデルベルク大学に留学し、血液型学を学んだが、ドイツでの研究室では単に血液型とその遺伝の研究に留まらず、民族によって血液型の分布の違うという話題に発展した。この時代は、白人の優位を立証しようとする民族学(形質人類学)が盛んだった。日本人や中国人に多いB型は動物に多い血液型だという。ドイツ人にB型が少ないとするなら、B型は進化途上で淘汰されてきた血液型ではないのか。何となくそうではないかという雰囲気が研究室にあった。原は、帰国後、東大医学部の内科医局へ入ったが、7、8ヶ月で郷里の長野県の日赤病院へ赴任した。そこで、地道な医療活動をするかたわら、日本初の血液型の調査を行い、その結果を1916年地元の新聞や論文に発表した。その結果やはりB型は欧米人より多かった。日本人が西欧人に劣っているはずはないということを立証してみせたかった原の試みは裏目に出たが、そのかわり、調査の過程で、兄弟の一人がA型で一人がB型で、Aの方は従順で成績優等、Bの方は粗暴で最下等の成績であるなどのことがあって、血液型とその人の性格との間には、関連があるのかも知れないと気づき、論文にそのことを記載した。日本における血液型と性格に関する、最初の問題提起の論文だった。しかし、B型が多いからといって人種的に劣っているかどうかという問題の立て方自体に、原は不快感を感じたのか、彼はその後この研究はしていないようだ。人間に対して差別的な予断を血液型から持つこと自体、臨床医としての原は嫌ったのだろう。原来復は1922年に亡くなった。
(3) 第2章血液型と民族差別
 1919年、ヒルシュフェルトの「人種別血液型分布」に関する論文が発表された。当時日本でも軍医校の教官が輸血を試みるなど血液に関心をよせていた。1926年軍医の平野林は、出身、身長、体重、兄弟の性別、数、兵隊の階級、懲罰、病気、免疫等と血液型との関連を調査した論文を発表した。この論文の中で、平野林は、L・ヒルシュフェルトの「A型の発祥地は北欧、B型は中央アジア」という学説と、F・シュッツとE・ウォーリッシュの「知識人にはA型、犯罪者にはB型が多い」(1924)という「B型劣性」をにおわせる論文にふれ、彼らの学説は人種差別を意味していると批判し、自分たちの調査では、B型に優秀な兵卒が多いこと、血液型によって性格がちがうことが明白ならこれからも研究が必要だと述べた。平野林の論文は陸軍医たちのテキストとなって、軍医たちが血液型と射撃成績、各種スポーツの成績との関係、血液型別戦友の相性などという研究をあいついで発表した。軍関係者は兵隊の資質を調べたがるが、そのためには陸軍は大がかりな軍隊検査(IQテストなど)を心理学者に実施させ、海軍も無線、潜航、航空の作業能率をあげるための心理学研究室をつくっていた。血液型による兵の管理をしようとするアイディアはこうした流れの中に登場した。東大の心理学教授松本亦太郎が医学のジャンルであった血液型と医学者が不得手とする心理学をむすびつける際の功労者になったのだと思える。
(4) 第3章「血液型と気質」学説の誕生
 昭和2年、東京女子高等師範学校教授で教育学、心理学を担当していた古川竹二が「血液型による気質の研究」という論文を「心理学研究」に発表した。これが今日まで占いとして話題を呼んでいる「血液型と性格」の原型になった。それまでは医学を中心に、生物、動物学者が関わってきたこの問題に、教育、心理学者が参入したことにより、血液型をめぐる問題の質ががらりと変わった。
 彼の研究の背景には、ギリシャのガレノスの四気質説、欧州のヴント、クレッチマー等の新しい気質学の成果や、陸軍にも関係し知能検査で一歩先んじていた東大の権威者松本亦太郎の示唆があった。
 古川は、気質という重大な心理的現象は生理現象と何らかの関係がありはしまいかと、医学上最近の問題たる血液の研究に暗示を得て研究してみたと論文の冒頭に書いたが、論理の組み立てはギリシャのガレノスとほぼ同じである。古川論文は、ABO血液型についての医学的な研究成果を紹介し、次いで、彼の家族、東京女高師の職員や卒業生、友人、生徒などを対象にした調査から、血液型が、積極的、進取的と消極的、保守的の二つに分けた気質の基調を決定する重大な要素であるとした。
 ヒルシュフェルトがA型を白人の優性的血液型と考えたのに対し、古川は、A型は「消極的、保守的」であり、B型とO型が「積極的」な血液型とすることにより、結果として進化論的テーブルから逃れた。問題を民族のレベルから個人のレベルにすり替えてしまった。
 医学者のだれもが躊躇した領域に断定的に切り込んでみせた勇気は大変なものである。彼がこんな勇気を出せたのは、古川が、松本亦太郎たち心理学者の権威の後ろ盾を持って、自説を社会的有用の流れの中に置いたからだ。
 さらに彼は、「血液型による気質及び民族性の研究」という論文で、自分の推定した血液型と気質の考え方を世界の民族にもあてはめた。民族ごとの血液型分布の違いから民族性係数を計算し、各民族を消極的、保守的な民族、積極的、進取的な民族と分類した。
 この血液型と気質の分類法は、新しい気質論を展開したヴントや、人間の体格と気質をむすびつける研究を発表したばかりのクレッチマーの真似である。
 古川の論文は、その時には、世間的に大した反応もなく終わったが、翌年1928年に古川の名を有名にする事件が起きた。東京の小学校で彼が血液型検査を行ったところ父兄から抗議が出、東京市の教育局長が小学校の校長を呼び出し、中止させたことを東京朝日新聞、読売新聞が大きく取り上げて叩いたのである。
(5) 第4章 古畑種基の活躍
 国際的に活躍する法医学者として有名になっていた金沢医科大学の古畑種基は東京日日新聞に医学界の血液型研究の専門家の立場から反論を書き、この科学研究がすすめば職業の選択、白已の修養、児童教育の方針まで広く社会に役立つのになぜ迫害するのかと、きわめて強い調子で朝日を非難した。諸外国では、とっくにABO血液型を法医学で応用しているし、犯罪者との関係、病気や体質との関係といった報告が数多く出ている。日本の学者は、欧米人の学説だと盲目的に信じて、よく理解しないまま得意気にそれを論じるくせに、それが日本人の業績だと、尊重するどころか傷づける傾向がある。不幸にして古川氏は今回その奇禍に遭遇する処になったのである。古畑は日本の学者に怒っていたのである。古畑は、かつて血液型の遺伝についての新説を日本の学界で認められず、古畑の学説を支持したのは古川と長崎医科大学の浅田一ぐらいだった。自説を認めてくれた古川も新説で迫害を受けている。古川説が自分の新説と同じ運命にあるなら、支援せずにおけない。古畑の古川学説擁護には、こうした個人的憤懣がからんでいた。古畑は古川に法医学会で発表する機会を与え、医学雑誌に論文を掲載するようとりはからった。また、古畑はラジオに出演した折りにも古川学説を紹介するなどした。こうして古川の学説は古畑を通して、作家とジャ一ナリズムに深く関係していった。作家とジャーナリズムは、古畑という学者を信じて、彼が正しいというものはまちがいないとその宣伝係をつとめた。
(6) 第5章 思想犯の血液型
 古川の学説が発表された時代はマノレクス主義思想が青年を魅了した。日本の体制は、独占支配も中途半端だったし、金融恐慌に怯え、外国列強資本に揺さぶりをかけられ、日本は体制自体存亡の危機にあった。そんな時に、国を危うくする思想にかぶれる青年が溢れるように出現してきたのだ。このような時代に発表された秋吉良文の論文は、体制当局側の意向にかなったものといえた。思想犯と一般社会人と一般受刑者とを比較すると、思想犯にはA型とO型が多いというものだ。
 この論文を引用して「共産党員の血液型」という記事も雑誌に掲載された。普通の犯罪者の血液型についての調査も発表された。これらの調査のきっかけとなったのは、ドイツの研究である。1924年、ドイツのF・シュッツとE・ウォーリッシュが、「知識人には「A型」が、受刑者には「B型」が多い」とこする論文を発表したことの影響は大きく、ドイツで受刑者の調査の報告が次々と発表された。これらの論文に影響を受けて、我が国でも、犯罪者と血液型との関係についての調査、報告が相次いで発表された。これに対し、京都大学法医学教室からは、血液型と気質とは少なくとも大した関係がなく、血液型と犯罪とにも何等の関係が見出されないとの反論も出された。新聞記者、小学校女教師、市電運転手、歌舞伎役者やルンペンの血液型の調査をした学者もあった。優生学的発想から、血液型と精神病を論じたのは1925年のベルンスタインらが最初のようだが、日本でも、王丸勇、長沢正隆、藤井綏彦がそれぞれ三大精神病と血液型の調査をした。思想犯、犯罪者、精神病、いずれにせよ、血液型によって決定的なことはなにもでなかった。こうしたデータは、すべて医学者から出ている。しかし医学者の論じ方は、マスコミに馴染まず、一般的な話題は、ただ血液型と性格にのみ集中していった。
(7) 第6章「血液型」大行進
 1930年(昭和5年)、浜口雄幸首相が東京駅で撃たれたが、輸血によって命をとどめたという事件によって輸血の知識が国民にひろがり、同時に血液型を知らないと輸血もできないという常識も一気に広がった。血液型にさらなる関心がよせられ、大衆的な血液型と性格ブームの下地ができた。長崎医科大教授で法医学者の浅田一は、古川の考え方を基に、自分の形式図もつくって、わかりやすく説明するなどした。彼は、中学同級生の製薬業者と共同で大阪血液型研究所を作り、「血液型研究」という血液型と性格や血液型物質研究の雑誌を刊行したが、記事の一部には、スポーツ選手の血液型の調査報告もあり、浅田は俳優の血液型の調査結果を紹介し、死んだ松井須磨子や川上貞奴もO型にあてはまる人の様に思われると書いたりした。
 1931年(昭和6年)、デパートが無料の血液型検査をしはじめ、同じ頃、路上で口上を述べて検査料をとって血液型検査をするテキ屋が現われた。尾崎行雄も古川の研究に傾倒していたといわれ、その斡旋で、古川が交詢杜で実業家や著名人に講義をした。学界でも古川、浅田、古畑が活躍し、新聞に取り上げられた。特に古川は、歴史上の人物に血液型をあてはめたり、各地方の人の性格と血液型分布を関連づけて論じ、さらに世界のどんな民族もどんな出来事も血液型で割り切ろうとし、乱暴に血液型学説を振り回すようになった。
(8) 第7章時代の流れの変わり目
 1932年(昭和7年)、古川の著書が刊行されたが、同年末から古川学説への批判が一斉に始まった。京大の金関丈夫の批判、そして古畑の門下からも、正木信夫が、古川の気質表をつかって4000人を調べてみたら、ある血液型にのみ限り現われる気質を発見することができなかった、と古川の学説を全面的に否定した。1933年(昭和8年)、浅田のいた長崎医科大の勝矢信司が、質問紙法の暖昧さなどを批判した。勝矢の非難は、長崎医科大の法医学教室の機関誌に発表された論文にも向けられた。勝矢と古川は一般の新聞や医学関係の新聞を通じて激しく論争した。そんな折、岡山で法医学会が開かれ、古川学説に対する批判の報告が浅田門下の吉田寛一、古畑門下の正木信夫ら3件あり、古川学説の支援者との問で激しい議論となった。
(9) 第8章長崎医科大学、博士号売買事件
 血液型をめぐる学者同士の対立は、学術的対立から派閥争いに姿を変えて展開していった。全国で唯一の京大系医科大学となっていた長崎医科大学では、従前から東大派と京大派の対立が激しかった。浅田門下の田上中次は副論文の一つに「血液型と性格」を含む学位論文の審査を巡り京大派の勝矢信司から暴言を吐かれ、論文通過が無理なことを知り、論文審査の留保を申請したが無視されていたが、昭和7年12月、田上は、勝矢を「職権濫用」であるとして長崎地方検事局に告訴した。長崎地検は博士号が3〜5千円で売られていることを聞き、捜査を進め、贈収賄の疑いがあるとし、浅田、勝矢ら3名の教授が家宅捜索を受け、8名の開業医が収監され、全教授が辞表を提出するまでに発展した。勝矢と贈賄側8名が起訴され、浅田は不起訴となり、勝矢も浅田も依願免官となった。
(10) 第9章「血液型と性格」騒動の終結宣言
 1933年(昭和8年)の岡山の法医学会、同年末の長崎医科大学事件という二つの出来事以来、「血液型と性格」に関する話題は急速に冷えていった。浅田一は東京女子医専教授に就任し、昭和11年、古畑が、金沢医科大から東大教授として栄転した。これで血液型と性格ブームの仕掛人3人が東京に集まって、ますます賑やかになったところであるが、そうはならなかった。血液型と性格の元祖古川は、学会でさんざん否定された哀れな存在だったし、元気のいい浅田は学位スキャンダルでみそをつけている。健在なのは古畑一人だけだった。古畑は、もう、東大教授の名前に傷が付くようたことには関係したくなかった。古畑は、血液型がアマチュアのとやかく言う学問でなく、専門的知識の必要とされる権威ある学問であることを明らかにするため、血液型と性格ブームに、みずからの手でとどめを刺し、幕を下ろそうと決心した。1937年(昭和12年)、古畑は真っ向唐竹割りに古川を切って捨てる文章を雑誌に4回連載し、血液型と性格との相関を論ずることの終結宣言とした。これに対し、浅田は、出世をして立場が変わると意見も変える古畑を婉出に非難し、自分の考えを曲げなかった。古川は、古畑論文に1年以上たって反論し、従前の説を丹念に繰り返し、やはり血液型と性格の間には何らかの関係があるように思えてならないと書き、その翌々年の昭和15年に亡くなった。
(11) おわりに
 血液型についての研究は、@血液型の生化学的特性(物質構造)、A目、髪をはじめ体の各部分との比較などの形質、B病気との関係、C犯罪者や精神病など心の様態との関係、及びD階級、宗教、知能、性格、行動など社会的要因が大きいものとの関係、の五つに整理できる。日本では、Dの人間の性格、行動に関心が行き、Aの形質の研究は抜けており、@ないしCが主流だった西欧と大きく異なる。軍医による研究は古川竹二と古畑種基の二人にゆがめられてしまった。病気や犯罪者に関する初期論文は、西欧と日本と差はなかったが、その後西欧はデータを積み重ね、新たな科学的事実や理論を生み出した。
 疫学思考が根づいている西欧では、ABO血液型と諸現象の比較考察は続いている。血液型とガンの相関についての調査結果の論文が発表されている。これらの影響を受けたハイデルベルク大のF・フォーゲルは、ペストには0型が、天然痘にはA型が弱いという疫病との関係の論文を発表した。1960年代の後半に、O型はA型より体が強いのではないかという論文が発表され、その後、A2型とO型はA1型より知能指数が高いとのべる論文、イギリスの上流階級はA型が多いという論文があらわれるが、これらの論文には古川竹二をはじめ、日本人の論文はみられない。
(二) 被告書籍該当部分の要旨は次のとおりであると認められる。
(1) 日本の大多数の心理学者は、血液型と性格とは一切関係がないとしている。世に氾濫する血液型性格学、血液型相性学などという本にはいいかげんなものが多い。ただその批判の仕方があまりに感情的で大人げないのが気にかかる。彼らにとって血液型と性格について論ずることはタブーのようなものではないか。もし血液型と性格との問に何か関係があると思っている素振りを見せたら、即刻学界から永久追放されかねないのではないかと感じられる。何か重大な事情でも隠されているのだろうか。血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか知る必要がある。そこで、原告書籍を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう。
(2) 現在の血液型ブームは、能見正比古が火付け役である。彼は、東京女子高等師範の学生だった姉の幽香里さんの血液型と男女の相性についての講義に触発されその後「血液型人間学」を構築するに至っだそうである。氏はあまり関係をはっきりさせていないものの、その論の基本的な部分を昭和初期の心理学者古川竹二のものなどに準拠させていることは間違いない。話はその当時まで遡らなければならない。
(3) 血液型と性格との関係について初めてそれらしきことを言ったのは原来復である。世界で初めてかも知れない。1911年にドイツのハイデルベルク大学に留学し、本場の血液学を学んで帰国した。彼は郷里長野の日赤病院で医師として働いていたが、そこで日本初の血液型検査を行った。その時不思議な現象に気がついた。たとえば、A型が5人、O型が一人という6人兄弟の性格を調べてみると、O型である一人が他と全く違っている。一方がA型、他方がB型の兄弟で、A型が従順、成績優秀であるのに対し、B型は粗暴で成績が芳しくなかったりする。彼はこの結果を1916年に発表したが、その後は、この問題を何ら掘り下げて研究することなく、1922年他界した。
(4) 1924年には、ドイツのF・シュッツ、F・ヴォーリッシュが、「知識人にはA型が多く、犯罪者にはB型が多い」という内容の論文を発表した。1901年の血液型発見以来、ドイツを初めとする西欧諸国では、血液型研究のかなりは白人の優位を証明しようとするものだった。調べてみると、"劣等。であるはずの東洋人、インド人にはB型が多く、"優位。である白人にはB型が少ない。しかもイヌ、ウサギなどの動物にはB型が多い。シュッツらの研究に、日本の研究者たちは猛然と反発した。これではまるで日本は犯罪者だらげだと言っているようなものだと。ところが学者は因果な商売で、データが取れるとなると話は違ってくるので、彼らを真似た研究が続々行われた。軍隊の階級ごとの血液型を調べたり、ルンペン、犯罪者についても血液型との相関を見いだそうとした。民族や人種という観点からはあまり盛んにならなかった日本の血液型研究だが、その対象がひとたび個人に振り向けられるや、このように異常なまでの盛り上がりを見せた。兵隊の素質を調べ、管理したいという軍部の要請も大いに影響したようである。
(5) このような時代背景の下、血液型と性格を結びつける最初の本格的な研究を行ったのが、古川竹二という心理学者である。彼は東京女高師教授であった(同校の学生だった幽香里さんは同校の女学生に代々伝わる"血液型伝承。のようたものを能見氏に伝えたのかもしれない)。古川の学説は、実験心理学の確立者といわれるヴントなどの影響を受けている。さらに古代ギリシャの医師ガレノスの四気質説の影響さえ窺われる。1927年、「心理学研究」という専門雑誌に載せられた「血液型による気質の研究」と題する論文には、血液型と気質との相関がまとめられている。古川は、家族、友人、東京女子局等師範の生徒、卒業生、職員などに対して行ったアンケートの結果、及び互いによく知る人どうしで相手の評価をさせ、「A型は、消極的、保守的」、「B型と○型は積極的、進取的」という気質の基調についての結論を得た。古川論文は学術誌に掲載されただけなら一学説に留まっていたかもしれないが、翌年、古川の名を世間に知らしめる事件が発生する。彼が小学校の児童の血液型検査を行ったところ、父兄から、医者でもないものが血液を採取するとは何事かと抗議が出て、東京朝日新聞と読売新聞が大きく取り上げた。いずれも古川を激しく非難する論調である。
(6) しかし、後に血液型学の権威となり文化勲章を受賞することとなる法医学者の古畑種基が彼の擁護に乗り出した。古畑自身、画期的な研究が学界から認められなかったという経緯を持つが、血液型研究に対する日本社会の無理解、自国人による独創的研究に対する日本の学界の冷ややかな態度など、様々な個人的憤懣が少なからぬ動機となっていた。彼は、全国放送が始まったばかりのラジオに出演するなどし、古川説の普及者ともなった。同じく、法医学者の浅田一も強力な助っ人だった。学界で認められなかった古畑の説を古川と浅田だけが支持したという過去もある。浅田は、製薬会社のオーナーが発刊した「血液型研究」という雑誌に、俳優や女優の血液型を載せて批評し、亡くなった女優の血液型を推理するなど、現在のブームの手法の原型と思われるような内容を盛り込んでいる。古川も、県民性を血液型分布から論じたり、歴史上の人物の血液型を推理するなどしている。
 こうして古川、古畑浅田のトリオは、一般人を巻込んだ血液型ブームの立役者となる。尾崎行雄は古川学説の熱心な信奉者で、交詢社に古川を招き講義を依頼した。古川説は、日本の上層部に広まっていった。庶民層では弁舌巧みに血液型を知ることの有用性を述べた後血液型検査をして金を取るテキ屋、血液型占い師などが現われた。ブームが頂点に達するのは、1931年ころである。医学関係者、特に軍医の問では、古川論文以前から様々な血液型研究がされていた。血液型と兵隊の特性が考慮され、犯罪者、娼婦、精神病者、学校教師、ルンペンの血液型が調べられた。
(7) ところが、古川にとって大打撃となる二つの事件が起こった。一つは、古畑の門下生、浅田の同僚、門下生を含む法医学者や心理学者が、古川の研究そのものに対し重大な疑問を投げかけたことである。古川とほとんど同じ方法で追試したにもかかわらず、彼のいう結果が出てこない。さらに、調査方法自体にも疑問が呈せられた。そのようなわけで、1933年、岡山で開かれた法医学会で古川は手厳しい批判を浴びた。
 傷心の古川にさらに追い討ちをかけた二つ目の事件は、1933年末、浅田がトラブルに巻込まれ、教授を辞任せざるを得なくなった。原因は博士号授与に関して贈収賄があったことだが、背後には東大対京大の学閥争いがあった。
(8)  血液型と性格についてのそれ以降の歴史(おそらくはタブーの歴史)を決定づけたのは、古畑の驚くべきふるまいである。1936年、古畑は東大教授に迎え入れられた。このとき浅田はスキャンダルで半ば失脚状態、古川も学界でさんざん叩かれ、学者として風前の灯という状態で、元気なのは古畑ただ一人だった。彼は、その地位を守るため、専門の血液型学を専門家にしか理解できない権威ある学問に衣替えさせねばならなかった。古畑は、一転して古川批判を開始し、東大教授という威光も手伝っでほとんどの学者が彼に追随した。そして、ため押しとして、血液型と気質の関連を論ずる古川学説は誤りであり、それらの問には何らの相関もないことがわかったと1937年に宣言した。血液型と性格をめぐるおそよ10年間の騒動は、こうしていささか強引ともいえる形で幕を下ろした。以来、1971年に能見が本を出版するまで、この話題は水面下に沈潜し、同時に血液型と病気というような医学的研究も、日本では立ち消えとなってしまった。浅田だけは、古畑の豹変ぶりを批判した。古川は特に反論しなかったが、やはり血液型と性格との間には何らかの関連があるように思えてならないと主張し続け、1940年に亡くなった。
(9) 以上が松田氏の前掲書からまとめた血液型騒動の顛末である。
 現在、血液型と性格には一切関係がないと主張される背景には、決め手となるような結果が得られないという事情が確かにある。しかし、ひょっとすると血液型学の権威、古畑の威光がまだ残っているのかもしれない(古畑が亡くなったのは1975年)と思えなくもない。
(三) 翻案権侵害の有無
(1) 翻案とは、既存の著作物に依拠して、その著作物の具体的な表現をそのまま利用するのではなく、その表現の本質的特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更を加えて、新たに創作的に表現することであり、具体的に小説を例にとれば、原著作物である小説の基本となる筋、主たる構成は同一でありながら、時代設定を変更する、あるいは脚本化する等に応じて、創作的に具体的表現をすることである。
 本件のように、歴史についての著作物についても翻案があることは当然であるが、歴史についての著作物の特徴から、翻案権侵害の成否の判断に当たっては、次の諸点について留意する必要がある。まず、歴史上の事件、事実そのもの、史料(学説史の場合は記述の対象となった文献)について、歴史についての著作物の著作者の著作権が及ぶものではないから、単に同じ歴史上の事件、事実を取り上げ、同じ史料を利用しているからといって、表現の本質的特徴が同一であるとはいえない。他方、歴史上の事件、事実や史料の意義についての評価、それらの関連性の説明、それらを組み合せた歴史の流れの認識、歴史上の人物の役割の評価等についての具体的記述が創作的な表現であれば、著作物として著作権の対象となるのは当然である。もっとも、歴史上の事件、事実、史料の意義の評価、それらの関連性の説明、それらを組み合せた歴史の因果関係の認識、歴史上の人物の役割の評価等の骨子自体は、それらを個別に見れば、歴史についての認識、思想そのものとして著作権による保護の対象とはいえないが、それらを組み合わせ歴史についての記述の筋道の中に位置づけたものは、小説の場合の基本となる筋、仕組み、主たる構成と同様に、その歴史の著作物の表現の本質的特徴となりうるものである。
(2) 原告書籍と被告書籍該当部分の歴史記述のテーマを比較する。原告書籍は、「はじめに」の章で記述されているように、血液型を差別のために使った歴史を中心のテーマとしている。この点は、被告書籍該当節が、血液型と性格について論ずることが日本の心理学者にとってタブーなのではないか、という視点から、血液型と性格との関連を論ずることについて、どんな歴史があったのかを知る、という概括的なテーマを設定しているのとは異なっているかのようである。しかし、原告書籍は、同時に、医学者の関心事が社会と関わりどのような社会的運命をたどったのか、人問の気質と性格を科学的に判定できるかも知れないという魅惑的なテーマに関わった研究者がどんな運命をたどらざるを得なかったか、血液型と性格や病気のアイディアが、当時の学閥争いに巻き込まれ、学閥に軍、マスコミが絡み、争いを演じたこと、という点も付随的にテーマとして挙げており、実際にも、本文204頁、「はじめに」と注をあわせると231頁の書籍で、丹念に研究論文を引用し、必要に応じ関係者の履歴を調査し、新聞等の史料により関連する社会動向を折り込むなど充実した内容で、この点においては、血液型と性格との関連を論ずることにどんな歴史があったかを知るという被告書籍該当部分のテーマを含んでいるというべきである。
(3) 原告書籍と被告書籍該当節の記述の筋道を比較する。
 被告書籍該当部分は、能見正比古の著書及び人物について約1頁を割いて説明する記述がある点(原告書籍は右著書が1970年代の血液型ブームのきっかけとなったことのみを指摘している。)、被告書籍64頁15行目以下でカイ二乗検定などの統計的処理に触れる記述がある点、古川学説の紹介の前に、シュッツ、ヴォーリッシュらの研究、及びその影響を受けた日本でのルンペン、犯罪者等についての血液型検査についての記述がある点(原告書籍は、古川学説の発表とそれに対する批判、古畑の擁護についての記述の後にこれらについての紹介、説明がされている。)、被告書籍65頁6行目以下で、能見の姉が、古川が教授を務めた東京女子局等師範学校の学生だったことから、能見への古川学説の影響を推測する記述がある点が、原告書籍と異なっている。
 しかしながら、被告書籍該当部分のそれ以外のほぼ11頁にわたる記述は、その対象期間が原来復に始まり古川の死に終わるものであって原告書籍と同一であることはもとより、原告書籍に叙述がある事項しか記述されておらず、また記述の順序も、前記シュッツ、ヴォーリッシュらの研究、ルンペン、犯罪者等の血液型検査の記述以外は原告書籍の順序にほとんど従って記述されたもので、個々の歴史上の事実、事件、紹介される研究が共通するのみでなく、歴史の流れの記述の中のそれらの位置づけが同じであることは、前記(一)、(二)及び別紙別表2から明らかに認められる。
 のみならず、とりわけ被告書籍該当部分における以下のような点、すなわち、古川が東京の小学校で血液型検査をしたことで新聞に批判された時に、古畑と浅田が古川の擁護に乗り出し、「こうして古川、浅田、古畑のトリオは一般人をも巻き込んだ血液型ブームの立役者となる」として、右3者の共同歩調を強調すると共に、古畑の右行動の裏には、古畑自身が画期的な研究をしたにもかかわらず、日本の学界により認められず、古畑説を支持したのが古川、浅田のみであったことが背景にあるとし、その後、1933年に、古川が岡山の法医学会で批判を受け、また、浅田が長崎医科大事件でトラブルに巻き込まれ辞任に追い込まれた一方、1936年、古畑が金沢医科大から東大教授として栄転し、古川、浅田が影響力を失っている中で、自分の地位を守るため、専門とする血液型学が一般人が容易に理解できるようなものではない権威ある学問であることを示そうとして、態度を一転して古川批判を開始し、血液型と性格の関連についての終結を宣言した、という血液型と性格との関係についての論争をめぐる歴史の因果関係の説明、人物の役割の評価も原告書籍の個性的な内容表現であるそれと同一である。
(4) 以上の事情を総合すると、前記の相違点を考慮しても、原告書籍を読んだことのある一般人が被告書籍該当部分を読めば、右部分は原告書籍を要約したものと直接容易に認識できる程度に、右部分は、原告書籍の表現の本質的特徴を具えているものというべきである。
(四) 前記のとおり、被告竹内が被告書籍を執筆する際に、原告書籍を参照したこと、被告書籍の該当部分の初へめには、原告書籍などを参考にしました(第1刷)、原告書籍を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう(第2刷)、との記載があることは、当事者問に争いがないから、これらの事実によれば、右部分は、原告書籍に依拠して作成されたものであると認められる。
(五) したがって、被告表現部分2の61頁ないし73頁を含む被告書籍該当部分は原告書籍の要約として翻案であると認めるのが相当である。
3(一) 被告らは、原告書籍と被告書籍該当部分とが扱う歴史的事実は同一であるが、それを除いた内面的表現形式は相違する旨主張する。
 しかしながら、個々の事実が歴史的事実であったとしても、被告書籍該当部分のほぼ11頁にわたる記述は、前記のように、対象期問が原告書籍と同一であることはもとより、原告書籍に叙述がある事項しか記述されておらず、また記述の順序も原告書籍の順序にほとんど従って記述されたもので、歴史の流れの記述の中の歴史上の事実、事件、紹介される研究の位置付けが同じものであり、歴史の因果関係の説明、人物の役割の評価それ自体が同一であるのみでなく、歴史の流れの記述の中でのそれらの位置付けも同一で、原告書籍の表現の本質的特徴を具えたものである。そして、右のような特徴は個性的なものである。したがって、被告書籍該当部分においては原告書籍の内面的表現形式が維持されているものと認められるものである。
(二) 被告らは、被告書籍の中の該当部分の位置づげからも明らかなように、両書籍のテーマが違うから、翻案には当たらない旨主張するが、前記のとおり、両書籍のテーマは重なる部分があるものである。
(三) 被告らは、被告書籍の該当部分の分量が、原告書籍の該当部分の分量よりはるかに少ないから翻案に当たらない旨主張するが、前記のとおり、被告書籍部分のほぼ11頁にもわたる記述は、これに触れた一般人が原告書籍の表現形式上の本質的な特徴を感得できるものであり、原告書籍の翻案である要約に該当するものであるから、被告の主張は採用しない。
三 争点3 (同一性保持権侵害)について前記のとおり、被告書籍該当部分においては、原告書籍の内面的表現形式が維持され、被告書籍に触れた一般人が原告書籍の表現形式上の本質的な特徴を感得できるものであり、原告書籍を改変したものと認められ、そうすることについて原告が同意していたことを認めるに足りる証拠はないから、被告書籍部分は、原告書籍を原告の意に反して改変したものと認められる。したがって、後に判断するやむを得ない改変の抗弁が成立しない限り、同一性保持権を侵害したこととなる。
四 争点4 (氏名表示権侵害)について原告は、被告書籍(第1刷)が原告の氏名表示権を侵害するものである旨主張する。
 原告表現部分1のうち、著作物性が認められないものについては氏名表示権が存在せず、また、著作物性が認められるB、◯27についても、前記のとおり、対応する被告表現部分1は、原告表現部分1の特徴を感得できるようなものではないから、氏名表示権を侵害するものではない。
 前記のとおり、被告書籍該当部分においては、原告書籍の内面的表現形式が維持され、被告書籍に触れた一般人が原告書籍の表現形式上の本質的な特徴を感得できるものである。しかしながら、前記のとおり、被告書籍第1刑には、該当部分の前に、「血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか調べてみることにしたのである(『「血液型と性格」の社会史』、松田薫著、河出書房新杜、などを参考にしました)。」との記載があるところ、右のような記載は、「などを参考にしました。」と引用部分と原告書籍との関係をあいまいに表示している点において、本来あるべき著作者名の表示の形式によったものとはいい難いが、一応引用部分の原著作者が原告であることがかろうじて看取できる表示と認められ、氏名表示権の侵害は認められない。
五 争点5 (引用による利用及びやむを得ない改変の抗弁)について
1 著作権法32条1項は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。」と定める。これは、文化は先人の文化的所産を利用しながら発展してきたものであり、既存の著作物をそのまま利用して新たな著作物を作成することも実際に社会的に広く行われていて、文化の発展に寄与していることに鑑み、社会の利益と著作権者の権利との調整を図るために、所定の要件を満たす引用には、著作権が及ばないこととしたものである。その趣旨からすれば、ここにいう引用とは、報道、批評、研究等の目的で自己の著作物中に他人の著作物の全部又は一部を採録するものであって、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物を明瞭に区別して認識することができ、かつ、両著作物の問に前者が主、後者が往の関係があるものをいうと解するのが相当である。
 そして、右の要件を満たすような形で、他人の言語の著作物を新たな言語の著作物に引用して利用するような場合には、他人の著作物をその趣旨に忠実に要約して引用することも同項により許容されるものと解すべきである。その理由は次のとおりである。まず、著作権法32条1項の解釈としても、引用が原著作物をそのまま使用する場合に限定されると解すべき根拠はないし、実際上も、新たな言語の著作物を創作する上で、他人の言語の著作物の全体あるいは相当広い範囲の趣旨を引用する必要のある場合があるが、その場合、それを原文のまま引用するのでは、引用の名の下に他人の著作物の全部又は広範な部分の複製を認めることになり、その著作権者の権利を侵害する程度が大きくたる結果となり、公正な慣行に合致するものとも、正当な範囲内のものともいえなくなるおそれがあること、また、引用される著作物が場合によっては、記述の対象が広範囲にわたっており、引用して利用しようとする者にとっては、一定の観点から要約したものを利用すれば足り、全文を引用するまでの必要はない場合があること、更に、原著作物の趣旨を正確に反映した文章で引用するためには、原文の一部を省略しながら切れ切れに引用することしか認めないよりも、むしろ原文の趣旨に忠実な要約による引用を認める方が妥当であるからである。そして、現実にもこのような要約による引用が社会的に広く行われていることは、証拠(乙46ないし50、52ないし65、68、72、74、75)により認められるところである。
 もっとも、著作権法43条は、1号で、翻訳、編曲、変形又は翻案の方法により、同法30条1項又は33条から35条までの規定に従って利用することができるとし、2号で、翻訳の方法により、同法32条(引用)等の規定に従って利用することができるとしている。そこで、他人の著作物を要約する場合には翻案に当たるものであり、同法43条1号には同法32条の規定に従って利用することは除外されており、2号では引用による利用ができる場合として翻訳の方法の方法<「の方法」が重複?>による場合のみが定められていることから、要約による引用は許されないとの解釈も考えられるところである。しかしながら、同法43条の趣旨に立ち戻って考えてみると、同条は、各著作権制限規定の立法趣旨とこれによる通常の利用形態を考慮するとともに、著作者の有する同法27条、28条の権利を必要以上に制限することのないよう、同法30条ないし42条著作権の制限規定の類型毎に、同法27条、28条所定の翻訳、編曲、変形又は翻案の方法によって利用できる場合と翻訳によって利用できる場合とを別に定めたものであるが、27条所定の方法のうち、各制限規定が定める場合において通常必要と考えられる行為を、翻訳、編曲、変形又は翻案の区分によって、それ以上細かく分けることなく挙げたものであると考えられる。そして、引用の場合には、音楽の著作物を編曲して引用したり、美術の著作物を変形して引用したり、あるいは、脚色又は映画化のように異種の表現類型へ変換したり、物語の時代や場所を変更する等典型的な翻案をした上で引用したりすることが必要な場合が通常考えられないことから、引用の場合許される他人の著作物の利用方法として、編曲、変形及び翻案をあえて挙げることをしなかったものと解され、要約による引用については、その必要性や著作者の権利との調整が検討されたことをうかがわせる証拠はない。このような同法43条の趣旨を前提とすれば、要約による引用は、翻訳による引用よりも、一面では原著作物に近いのであり、これが広く一般に行われており、実際上要約による引用を認める方が妥当であることは前記のとおりであり、他人の言語の著作物をその趣旨に忠実に要約して同種の表現形式である言語の著作物に引用するような場合については、そもそも同法43条2号の立法趣旨が念頭に置いている事例とは利用の必要性、著作者の権利侵害の程度を異にするものであり、同条2号には、翻案の一態様である要約によって利用する場合を含むものと解するのが相当である。さらに、同法43条の適用により、他人の著作物を翻訳、編曲、変形、翻案して利用することが認められる場合に他人の著作物を改変して利用することは当然の前提とされているのであるから、著作者人格権の関係でも違法性のないものとすることが前提とされているものと解するのが相当であり、このような場合は、同法20条2項4号所定の「やむを得ないと認められる改変」として同一性保持権を侵害することにはならないものと解するのが相当である。
2 右に示したところを本件について検討する。
(一) 原告書籍、被告書籍が共に言語の著作物であり、被告書籍該当部分の記述は、原告書籍の要約と認められることは前記認定のとおりである。
(二) 被告書籍第2刷には、被告書籍該当部分の前に「『[血液型と性格]の社会史』(松田薫著、河出書房新杜)という本を手掛りに、その内容を要約する形で説明してみよう。」との記載が、該当部分の後に「以上が、松田氏の前掲書から私なりにまとめた、大正から昭和初期にかけての"血液型騒動"の●末である。」との記載があるから、被告書籍該当部分は、被告書籍のその余の部分から明瞭に区別されているものと認められる。
 また、被告書籍第1刷には、前記のとおり、被告書籍該当部分の前に「血液型と性格との関連を論ずることについて、これまでどんな歴史があったのか調べてみることにしたのである(『「血液型と性格」の社会史』、松田薫著、河出書房新社、などを参考にしました)。」との記載がある。そして、該当部分の後には、段落を変えて、「現在、血液型と性格の間には一切関係がないのだと主張される背景には、血液型と性格の相関について、決め手となるような結果が得られないという事情が確かにある。それならそれは仕方のないことだろう。しかし、ひょっとすると血液型学の権威、古畑種基の威光がまだ残っているのかもしれない(古畑が亡くなったのは1975年)と「血液型と性格」の歴史を垣間見た私には思えなくもないのである。」との記述があり、そこで被告書籍該当節が終わっていることが認められる(乙20)。右のような形式は、引用される著作物を、それを引用して利用する著作物と明瞭に区別する形式として、望ましいものとはいえないものの、該当部分の前の記載により、該当部分が原告書籍の本質的特徴を感得し得るような形で要約されたものであることが表示されており、また、該当部分の後の記載は、その内容から、被告書籍の著者である被告竹内のコメント部分であることが明らかであるから、これらを併ぜれば、該当部分が被告書籍のその余の部分から一応明瞭に区別されているものというべきである。
(三) 次に、引用する著作物と、引用される著作物の主従の関係について検討する。
 被告書籍について次の事実が認められる(乙1)。被告書籍は、「小さな悪魔の背中の窪み一血液型・病気・恋愛の真実一」と題し、第1章、第2章は、血液型を扱っている。まず、「プロローグ」で、ウイルス、細菌、寄生虫等の病原体はいわばカッコウなどの托卵鳥あるいはそれらの卵やヒナのようなものであり、人間や他の動物はいわば托卵される宿主として、免疫の仕組みとカッコウなどの鳥で見られる托卵という現象とのアナロジーに着目し、被告書籍全体のテーマが免疫であることを明示している。続いて、血液型とは免疫の型であることを解説し(「血液型は何の違い」)、血液型と病気に対する低抗力との相関について述べる(「永田町老人が元気な理由」、「フジモリ大統領はなぜ窮地に立たされたのか」、「梅毒の力を知る」)。被告書籍該当節(「「血液型と性格」の関係はなぜ"俗説。なのか」)は、血液型と性格の相関が俗説として学界で強く否定されている背後には、血液型学の権威、古畑の威光があるのではないかと推測する。その後、血液型と性格に相関があっても不思議はないとする被告自身の論を展開する(「血液型と性格はやっぱり関係がある!」)。さらに、白血球の表面抗原であるHLAについても触れる。(「HLA・もう一つの旗印」)。その後、第3章では、美の起源につき、女が、背の高く足の長い男を好むのは、寄生虫に対する耐性の有無を判定する手段として、そのような男をカッコいい美しいなどという心理を進化させて来たもので、男が、肌色が白く透明感があって腰のくびれた女を美しいとするのは、現在寄生虫に冒されていないことを示すそのような女を好む心理を獲得したことによる、との仮説を述べ、第4章では、免疫本来の意味と逆に、寄生者(他者)が宿主(自己)の一部になり共生関係を成立させた例などを紹介し、男と女は、血液型、HLAのより一致した相手へと、性格や趣味、嗜好の一致、感情の高まりが導いてくれるとする。
 右のとおりの被告書籍の内容によれば、被告書籍は、免疫について血液型、病気恋愛という三つの面から論じたものとして、章立てはわかれているが、全体が一体をなしているものというべきである。そして、被告書籍該当部分は、被告書籍全体の中で、血液型と性格が相関するという仮説を立てる前提として、そのような考え方が学界で強く否定されている背後にある歴史的事情を述べる部分として、被告書籍全体に対して内容的に従たる関係にあるものであり、また、量的にも、200頁以上ある被告書籍のうちで引用部分は11頁程度の分量であるから、従たる関係にあるものであり、これらを総合すれば、被告書籍全体が主、該当部分が従という関係が認められる。
(四) 以上によれば、被告書籍該当部分は、著作権法32条1項により許容される引用による利用に当たるものと認められ、翻案権の侵害は認められない。また、右引用に当たって要約することによる改変は、同法20条2項4号所定の「やむを得ないと認められる改変」に当たるものというべきである。
六 結論
 したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告の本件請求は、いずれも理由がないからこれを棄却することとする。

東京地方裁判所民事第29部
 裁判官 八木貴美子
 裁判官 沖中康人
 裁判長裁判官 西田美昭は、転補のため署名押印できない。
 裁判官 八木貴美子

書籍目録
著者 竹内久美子
発行者 佐藤亮一
発行所 株式会社新潮社
書名 小さな悪魔の背中の窪み血液型・病気・恋愛の真実

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謝罪広告
 私どもは、貴殿の著作「『血液型と性格』の社会史」と題する書籍の一部について、貴殿の承諾を得ることなく、かつ何の権限にも基づかず、株式会社新潮杜発行の竹内久美子著作「小さな悪魔の背中の窪み一血液型・病気・恋愛の真実一」中に盗用し、かつ一部を改変し、もって貴殿の右書籍についての著作者人格権を侵害したことを認め、貴殿に多大の迷惑をおかけしたことをここに深くお詫び致します。
 竹内久美子
 株式会社新潮社
 代表取締役 佐藤亮一

松田薫 殿


別紙 略
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