判例全文 line
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【事件名】脳波数理解析論文事件
【年月日】平成2年11月28日
 京都地裁 昭和60年(ワ)第2140号 損害賠償等請求事件

判決


主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。

事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告
1 被告は、原告に対し、金五〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一〇月二四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告に対し、別紙一記載の謝罪広告を同記載の各新聞に同記載の条件で掲載せよ。
3 被告は、原告に対し、別紙二記載の謝罪広告を同記載の各雑誌に同記載の条件で掲載せよ。
4 被告は、原告に対し、別紙三記載の謝罪広告を同記載の雑誌に同記載の条件で掲載せよ。
5 訴訟費用は被告の負担とする。
6 第1項につき仮執行の宣言
二 被告
1 主文第一、二項と同旨
第二 請求原因
一 当事者
1 原告は、京都大学理学部所属の生物物理を専攻する研修員で、脳波の解析、神経回路網の解析等の研究を続ける者である。
2 被告は、京都大学理学部助教授で、流体力学を専攻する者である。
二 共同研究と共有著作権
1 原・被告を含む左の五名(以下「原・被告ら五名」という。)は、昭和四七年ころから同五五年までの間、脳波の実験的及び理論的解析に関する共同研究を続け、その成果として別紙四の業績目録記載の研究論文及び学会発表をなしてきた。
 原告 京都大学理学部研修員
 被告 同大学数理解析研究所助手
 【A】 野川病院医師(以下「【A】」という。)
 【B】 同病院検査技師(以下「【B】」という。)
 【C】 大阪大学経済学部助手(以下「【C】」という。)
 右は研究会発足当時の肩書であるが、その後被告が京都大学理学部助教授に、【C】が大阪大学工学部助教授に転職している。なお、右五名以外にも一時期他の者が共同研究に加わっていたことがある。この研究会は昭和五六年一〇月に解散した。
2 電気生理学的に測定される脳波は、大脳機能の解析方法の中でも古典的で知見も集積されているものの、その理論的解析は確立していない。雑音(背景脳波)のなかに埋もれた信号(誘発脳波)の抽出が困難であるのは、脳波の非定常性と雑音のパワーが信号のそれを数倍上回る点にある。
3 原・被告ら五名は、ウイーナー・フィルター法を実用化するという方法で、脳波の数理解析の糸口をつかむことに成功し、さらに各種模型を用いて簡単化をはかり、よく知られた方程式を脳波の解析に適用できることを明らかにした。
4 この共同研究の一連の業績は、医学、数学、物理学にまたがる学際的研究の成果であり、国際的にも注目され「【A】グループ」として広く知られている。脳波研究には、医師、測定技師、理論家の三者の緊密な連帯なくしては成果をあげえず、原告は理論家の中心的存在であった。
5 この共同研究の成果は、原・被告ら五名の連名によって、その都度内外に発表されてきたが、その骨子や概要は事前に検討し全員の了解を得ていた。
6 別紙四の業績目録記載の文献@ないしJは、原・被告ら五名の共同研究の成果として発表されたものであり、原・被告ら五名は右各文献につき著作権を共有するものである。
(1)文献@(甲第三号証)は、原告が昭和五一年六月に仙台の日本生理学会で行った講演の抄録である。
(2)文献A(甲第四号証)は、原告が昭和五一年八月にオタワの国際ME学会で行った講演の予稿集に登載されたものであり、ウイルソン・コーワン模型からファンデンポール方程式が導かれる過程を論じ、神経活動の不応期の効果を考慮するとヴォルテラ項が出現することから、簡単化された方程式は一般化されたリエナール型微分方程式或いは一般化されたヴォルテラ型微分方程式の形式に分類されることを指摘し、それらの最も簡単な場合にはファンデルポール方程式に帰着することを明らかにした。文献Aは、ついで、二個及び四個のファンデルポール方程式の結合系に対してパラメーターを制御することにより脳波現象が説明できることを計算機実験で示した。
(3)文献B(甲第五号証)は、原告が昭和五一年一一月に、福岡の日本脳波・筋電図学会で行った講演の予稿集に登載された予稿である。
(4)文献C(甲第六号証)は、【A】が昭和五二年四月に鹿児島の日本生理学会で行った講演の抄録である。
(5)文献D(甲第七号証はその原稿)は、原告が昭和五二年四月に東京の日本ME学会で行った講演の抄録であり、文献E(甲第八号証)はその学会講演の可否を決める審査用原稿である。文献Dの前半は、文献Aと同じく、ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導かれる過程を論じたものであり、後半は、空間相互作用をもつウイルソン・コーワン方程式から拡散項が導出できること、大脳皮質の視覚野のモデルに対してはフィッチュー・南雲方程式が導き出せること、投射経路のモデルに対しては空間の一階微分項を含むコルモゴロフ方程式が導き出せることを計算機実験と共に示したものである。
(6)文献F(甲第九号証)は、原告が昭和五二年七月に箱根の「性格・行動と脳波」研究会で行った講演の抄録である。
(7)文献G(甲第一〇号証)は、原告が昭和五二年九月にアムステルダムの国際脳波学会で行った講演の抄録であり、その内容は、ウイルソン・コーワン模型から得られた諸結果の集大成であり、文献A、Dの内容と同じである。
(8)文献H(甲第一一号証)は、原告が昭和五二年一一月にロサンゼルスの医学生物学工学会議で行った講演の抄録であり、(1)空間相互作用をもつウイルソン・コーワン方程式を簡単化してフィッチュー・南雲方程式を導き出すこと、
(2)それがリミット・サイクル振動をする波動群を表すときの包絡線方程式を導くこと、(3)脳波活動の振幅のゆっくりした変調は包絡線方程式の性質で説明できること等を明らかにした。
(9)文献I(甲第一二号証)は、【A】が昭和五二年一一月に仙台の日本脳波・筋電図学会で行った講演の予稿集に登載された予稿である。
(10)文献J(甲第一三号証)は、原告が右と同じときに右学会で行った講演の予稿集に登載された予稿である。
三 被告による著作権等の侵害
1 被告は、国際的に著名な学術雑誌であるバイオロジカル・サイバネティックス誌(Biological Cybernetics,Springer−Verlag)に、昭和五五年に単独名で次の第一論文(甲第一号証)を発表し、さらに三年後に被告、【A】、【B】の連名で、原告及び【C】を除外して次の第二論文(甲第二号証)を発表した。
 第一論文
 結合ファンデルポール振動子系 −興奮性及び抑制性神経の相互作用の模型(一九八〇年)三九巻三七頁
 第二論文
 神経集団に対する反応 −拡散型非線形方程式 (一九八三年)四八巻一九頁
2 第一論文による著作権等侵害
(1)第一論文の前半部分は、空間相互作用のない場合に、ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導けることを示したものである。第一論文は、「要旨」冒頭において、「興奮性及び抑制性の神経集団の力学に関するウイルソン・コーワン模型を拡張して、相互に結合したファンデルポール方程式を導いた(訳文、以下同じ)」と主要な結論が記載されているが、これは、文献@ABDFGIJの記載の結論と同一である。
(2)第一論文の「序説」の後半三分の一の部分、すなわち「以上述べた観点から」以降の部分は、この論文の意図と内容構成が説明されており、その意図として、「神経集団の適切な模型から結合振動子系を導きだせることを指摘することは価値がある。…非線形回路理論や生物システム理論の中ですでに確立している諸結果や方法を利用して、生理学的な変数と回路の係数を関係づければ、複雑な脳波現象でもよく理解できる」と記載されているが、これは文献@ABDFGIJの記載の意図と同一である。
(3)第一論文の「第2節」の部分は、「2・1基礎方程式」でウイルソン・コーワンの原論文の模型を要約した後、「2・2簡単化」において、連立ファンデルポール方程式を導くための簡単化の手順について記載しているが、これは文献@ABDGの記載と同一であり、更にその内容は右各文献の学会で口頭及びスライドで説明されている。
 特に、左のとおり、第一論文に記載された方程式は文献ADに記載された方程式と重複している。
 第一論文の(1)(2)(3)(4)式は、文献Aの(1)(2)式、文献Dの(1)式と重複。
 第一論文の(5)式は、文献Aの(3)式、文献Dの(2)式と重複。
 第一論文の(6)式は、文献Aの(4)式、
 文献Dの第2節の(4)の前の式と重複。
 第一論文の(9)式は、文献Dの(5)式の前半の式と重複。
 第一論文の(10)式は、文献Aの(2)式、文献Dの(5)式の後半の式と重複。
 第一論文の(11)(12)式は、文献Aの(6)(7)式、文献Dの(4)式と重複。
(4)第一論文の「第5節結語」の冒頭で、「この論文の主要な論点は、多数の相互作用する興奮性神経及び抑制性神経の部分集合に対する拡張したウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式が導かれることにある」と記載され、第2節がこの論文のポイントであることが示されているが、まったく同等のことが文献@ABDFGIJに明確に記載されている。
3 第一論文における原告らの文献の引用
(1)第一論文には、文献@ABDFGIJがどれ一つとして引用されていない。
(2)しかしながら、被告は文献@ABDFGIJを基礎として第一論文を書いたのであるから、これらを参考文献として第一論文に掲記すべきものである。
4 第一論文の以上の点は、被告が原・被告ら五名の文献のうちこの部分を無断で複製し、もしくは翻案したことにあたり、原告の共有する著作権と原告の著作者人格権とを侵害した。
5 第二論文による著作権等侵害
(1)第二論文の前半部分は、空間相互作用のある場合に、ウイルソン・コーワン模型からフィッチュー・南雲方程式が導けることを示したものである。第二論文の「要旨」の部分に、「興奮性及び抑制性の神経系の力学に関するウイルソン・コーワン模型から、いくつかの簡単な微分方程式を導いた。…それをさらに簡単化すると、神経インパルスに関するフィッチュー・南雲方程式と数学的に同等な偏微分方程式系に帰着することを示した。」との主要な結論が記載されているが、これは文献BDEGH記載の結論と同一である。
(2)第二論文の「第1節序説」の後半で「この論文ではウイルソン・コーワン模型の簡単化により、神経活動の全般的な振る舞いが、微分方程式論において、すでに確立した方法によって予見できるようになり、さらには、ある特定の神経機序や脳波のもつ(生理学的)意味をもっとよく理解することができる」と記載されているが、これは文献Dの1、2、3、文献Eの「目的」の(1)(2)、「結果」の(2)(3)、「まとめ」の(2)、「独創性」の(2)の記述にも一貫してあらわれている。
(3)第二論文の「第4節簡単化した方程式の導出」において、ウイルソン・コーワン模型の方程式の簡単化が記載され、「第5節簡単化した微分方程式の例」では、ウイルソン・コーワン模型の方程式からフィッチュー・南雲方程式が導かれているが、「要旨」及び「結語」の項でも強調されているとおり、この部分が本論文の主要な結論である。これと同じ内容が文献DEHで具体的に記載されている。第二論文の(30)、(31)式は、文献Dの(8)、(9)式、文献Eの(3)式、文献Hの(2)式と同一である。
(4)第二論文の「第7節結語」で、「この論文の主要な結論は、…ウイルソン・コーワン模型はフィッチュー・南雲型、…ファンデルポール方程式などの単純な微分方程式に還元できることである」と記載し、第4、第5節が第二論文の研究の眼目であることが明らかにされているが、同じ内容が文献BDEGHに明確に記載されている。
6 第二論文における原告らの文献の引用
(1)第二論文には、文献@ないしJ1のうち文献AHのみが引用されている。この二つは、いずれも学会報告のアブストラクトである。被告は、第一論文発表後、原告の抗議に対し、「学会のアブストラクトは引用しないのが慣例である。」と答えたのに、第二論文ではこれらを引用した。第二論文発表後、原告がこの点を再度問い質したところ、被告は返答に窮した。
(2)文献Aは、前記のとおり、ウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式を導くこと、そしてファンデルポール方程式二個及び三個を結合して脳波を人工的に作り出すことにあった。第一論文は、後者についての理論的解析を進めて、右の二つの内容をまとめたものであるから、文献Aは本来第一論文において引用されるべきものである。
(3)被告は、文献BDEGを基礎にして第二論文を書いたのに、これらの文献が第二論文に引用されていないのは不当である。
7 第二論文の以上の点は、被告が原・被告ら五名の文献のうちこの部分を無断で複製し、もしくは翻案したことにあたり、原告の共有する著作権と原告の著作者人格権とを侵害した。
四 第一、第二論文発表後の原被告の交渉
1 原告は、第一、第二論文の発表を、それぞれの論文の発表後に、第三者の知らせでこれを知った。
2 原告は、第一論文については昭和五五年もしくは五六年に、第二論文については昭和五八年及び五九年に、それぞれ被告に抗議した。
3 原告は指導教授その他に相談し、その結果原・被告間の調整が試みられたが、失敗に終わった。
五 原告の被った損害とその回復方法
1 原告は、被告の第一、第二論文により、文献@ないしJの共有著作権を侵害され、同時に著作者人格権を侵害され、多大の精神的苦痛を受け、かつ、名誉を毀損された。
2 右精神的苦痛を慰謝し、かつ、名誉を回復するためには、被告から原告に対し、著作権侵害の慰謝料として二〇〇万円、著作者人格権侵害の慰謝料として三〇〇万円の各支払い、及び別紙一記載の謝罪広告を同記載の新聞の各全国版に同記載の条件で掲載し、別紙二、別紙三記載の各謝罪広告を同記載の各雑誌に同記載の条件で掲載することが必要である。
六 請求
 よって、原告は被告に対し、慰謝料合計五〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和六〇年一〇月二四日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払、及び別紙一記載の謝罪広告を同記載の新聞の各全国版に同記載の条件で掲載し、別紙二、別紙三記載の各謝罪広告を同記載の各雑誌に同記載の条件で掲載することを求める。
第三 請求原因に対する被告の認否
一 請求原因一項1、2の事実は認める。
二 同二項1のうち、その主張の研究や発表が原・被告ら五名の共同研究としてなされたことは否認し、その余の事実は認める。各会員は脳波解析に関する自己の興味に従って研究し、その成果に対し互いに意見を述べたまでのことであり、研究や発表は、会員が個々的にしたものである。なお、被告は昭和五二年一〇月一三日から翌年一〇月一二日までイギリスに留学中であった。
 同二項2の事実は認める。
 同二項3の事実は否認する。
 同二項4のうち、本件研究会の研究が医学、数学、物理学にまたがる学際的研究であり、脳波研究には、医師、測定技師、理論家の三者の緊密な連帯なしには成果をあげられないことは認め、その余の事実は否認する。
 同二項5の事実は否認する。
 同二項6のうち、本件研究会の会員の研究により、文献@ないしJが発表されたことは認め、その余の事実は否認する。本件研究会では、研究や論文に著者として記名されていても、その者がそれに著作権を主張しうる程の寄与をしているとは限らない。
 同二項6の(1)の事実は認める。
 同二項6の(2)のうち、後段の、文献Aが二個及び四個のファンデルポール方程式の結合系に対して、パラメーターを制御することにより脳波現象が説明できることを計算機実験で示したことは否認し、その余の事実は認める。
 同二項6の(3)(4)の事実は認める。
 同二項6の(5)のうち、文献5の後半で計算機実験が示されたとの部分は否認し、その余の事実は認める。
 同二項6の(6)(7)の事実は認める。
 同二項6の(8)のうち、文献Hが原告主張の国際会議での講演の抄録であること及びその内容のうち(1)の部分は認め、その余の事実は否認する。文献Hは、被告が被告自身で具体的に解析を行った結果をまとめてロサンゼルスでの国際会議の講演の抄録として昭和五二年三月三一日に作成したものであるが、この国際会議の時期に被告が急遽イギリスへ留学したため、原告が講演を代行したものである。
 同二項6の(9)(10)の事実は認める。
三 同三項1の事実は認める。
 同三項2の(1)ないし(4)のうち、第一論文にその旨の記載があることは認め、その余の事実は否認する。
 同三項3の(1)の事実は認め、(2)の事実は否認する。
 同三項4の事実は否認する。
 同三項5の(1)ないし(4)のうち、第二論文にその旨の記載があることは認め、その余の事実は否認する。
 同三項6の(1)のうち、第二論文に文献@ないしJのうち文献AHのみが引用されていること及び第一論文発表後原告の抗議に対し被告が「学会のアブストラクトは引用しないのが慣例である。」と答えたことは認め、その余の事実は否認する。(2)(3)の事実は否認する。
 同三項7の事実は否認する。
四 同四項1の事実は知らない。2、3の事実は認める。
五 同五項1、2の事実は否認する。
第四 抗弁及び主張
一 著作物に非該当
1 原告は、文献@ないしJの内容のうち、「ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式等の偏微分方程式を導き出すアイデア」が著作権の保護対象であると主張しているものと解される。
2 しかしながら、アイデア自体は著作権保護の対象とならない。
二 万人が自由利用できる科学的知見
1 自然科学の知見ないし法則・真理は万人が自由に利用できるものであり、これには著作権は及ばない。空間分布のない場合とある場合の両方とも、ウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式を導くための簡単化は、第一、第二論文作成当時、既に知られた自然科学知見ないし法則となっていた。
2 また、第一、第二論文に記載の数式やその展開形式は、いずれも自然科学上の知見ないし法則である。
3 したがって、仮に、文献@ないしJにつき原告主張の著作権があったとしても、第一、第二論文は自然科学的知見ないし法則を利用したものであり、原告の著作権に抵触しない。
三 原告のプライオリティーの不存在
1 第一論文は、ウイルソン・コーワン方程式を興奮性及び抑制性の神経集団が多数ある場合に拡張して相互に結合したファンデルポール方程式を導出したことに意義を有する論文である。
2 他方、原告が著作権を主張するのは空間分布のないウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導くことであるが、空間分布のないウイルソン・コーワン方程式から、よく知られたテーラー展開という方法を用いて簡単化することは大学の学生でもわかる程度のことであり、このことについて、原告にプライオリティーがあるとはいえない。
3 第二論文は、空間分布のあるウイルソン・コーワン方程式を簡単化しているが、この方程式は単なる微分方程式ではなく微積分方程式であるので、微分方程式である空間分布のない場合ほど単純に簡単化はできず、たたみ込み積分に独立変数の変換を導入することによって、はじめて拡散項を含む微分方程式に簡単化できるのである。被告は、このアイデアを昭和五一年六月一六日に発見している。原告がこのアイデアを被告以前に発見したとは聞いたことがない。
4 したがって、そのプライオリティーが原告にないことは明らかであり、被告が原告のアイデアを剽窃したものではない。
四 自由利用の包括的許諾
1 本件研究会は、原・被告が参加する以前の昭和四四年九月ころ【A】の主宰により始められたものであるが、【A】は、昭和五三年六月ころ以来、博士号をもっていない会員が博士論文を書くにつき、研究会で出たアイデア・示唆・論文等を他の会員のその都度の了解を得ることなく、引用することなく、自由に利用できるようにしようと度々提言し、他の会員全員もこれを了解していた。そして、博士論文の場合に限らず、会員の誰もが研究会の成果を個人で自由に発表でき、他の会員の論文等を自由に利用できることは、昭和五四年六月にも会員の間で確認された。
2 原告は、昭和五四年九月にオーストリアのシュラドミングで行われた国際学会において、本件研究会の成果を踏まえて、被告の了解を得ることなく、原告単独名で、Dynamic Aspects of Cortical Rhythmic Activities(仮訳・大脳皮質のリズム活動の動的諸相)を講演し、これを昭和五八年に京都大学理学部紀要に発表した。右論文の内容は原・被告ら五名の共同研究に基づくものであるので、会員全員の名前が掲記されて然かるべきものであったが、これが原告の博士論文として発表されたと考えた他の会員は、原告単独名の発表に何ら違和感をもたなかった。
3 昭和五六年一〇月末に本件研究会が解散した際にも、会員は研究会の成果を踏まえて発表された論文等につき、その著者名が誰であるかにかかわりなく、他に対するその都度の了解を得ることや引用をすることなく自由に利用することを互いに許諾した。
五 共同名義での発表の拒絶
1 被告は、第二論文の原稿を研究会の会員に配付したところ、原告から「中途半端だ」と批判され、直ちには論文発表ができなかった。そのあと、原告はこの原稿に関連してはなんら研究を進めていない。
2 これは、原告が被告の第二論文につき共同名義で発表することを自ら拒絶したといえる。
3 そこで、被告は研究会解散後に、【A】、【B】と連名で第二論文を発表したものである。
第五 抗弁及び主張に対する認否
右一ないし五項の事実はいずれも否認する。
第六 証拠(省略)

理由
第一 当事者及び原・被告らの共同研究について
一 請求原因一項1、2の事実、研究や発表が原・被告ら五名の共同研究としてなされたことを除く同二項1の事実、同二項2の事実、同二項4のうちこれらの研究が、医学、数学、物理学にまたがる学際的研究であり、脳波研究には、医師、測定技師、理論家の三者の緊密な連帯なしには成果をあげられないことは当事者間に争いがない。
二 証人【A】の証言、原告本人尋問の結果によれば、【A】は医師として、大阪府守口市で野川病院を経営するかたわら、昭和四四年ころから研究者を集めて、脳波の分析に関する文献の研究を手始めに野川病院における脳波測定技術を活用し脳波の測定及び解析等に関する共同研究を主宰していたものであるが、原・被告も昭和四七年ころ相前後してこの共同研究に加わり、ここに原・被告ら五名の共同研究が始められ、主として【B】が野川病院で脳波の測定・採取をなし、【A】が医学的見地から脳波の生理的検討をなし、原・被告と【C】が脳波の数理的解析にあたり、原・被告はこの数理的解析のため京都大学数理解析研究所の大型電子計算機を活用し、共同研究を行い、別紙四の業績目録記載の研究論文及び学会発表は原・被告が加わった以後の原・被告ら五名の共同研究の成果であり、これらは一部の例外を除き原・被告ら五名の連名で発表されてきたものと認められる。
 もっとも、証人【A】の証言、被告本人尋問の結果によれば、この研究会はおおむね週一回夕刻から野川病院で行われ、各自がその専門的立場からその分野について自由な発言をするに終始していたもので、各自他に本業をもっていたため五名が定刻に出席するとは限らず、全員が揃わないままで随時研究上の報告や発言がなされ、毎回の研究内容が予め決められておらず、毎回の研究討議の記録は取らず、学会報告等の作成にあたっても分担執筆はせず指定された特定の人が一人で執筆していたものであり、共同研究の主体としての結果は強固とは言えないが、研究内容が、医師、測定技師、理論家の共同作業なしには成立しえないものでかつ毎年の日本ME(Medical Electronics)学会及び日本脳波・筋電図学会に原・被告ら五名の名義でその共同研究として学会発表をし、その原稿は事前に研究会の席で会員の閲覧に供されていたものと認められるので、この共同研究の成果は原・被告ら五名の共有と解するのが相当である。
三 成立に争いのない甲第三ないし一三号証によると、別紙四の業績目録記載の文献@ないしB、D、FないしJは原・被告ら五名連名、文献Cは被告を除く四名連名、文献Eは無記名のものと認められる。右甲第六号証及び被告本人尋問の結果によると、文献Cは被告が原・被告ら五名の共同研究の成果に基づき鹿児島の日本生理学会でした講演の抄録であり、被告が中心になって準備したものであるので、被告も共同研究者の一員として記名さるべきものであると認められ、また、右甲第七、八号証、原告本人尋問の結果によると、文献Eは原・被告ら五名連名で発表された文献Dの学会講演の審査用原稿であることからして、元来原・被告ら五名の名前が掲記されるべきものと認められ、いずれも原・被告ら五名の共同原告の成果である。
第二 文献@ないしJの形式・内容とその著作物性
一 文献@ないしJの形式と内容
1 文献@が昭和五一年六月に仙台で行われた日本生理学会における原告の講演の抄録であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第三号証によれば、文献@は、脳波活動のモデルとして非線形微分方程式(ファンデルポール方程式)をたててその数理解析によって脳波活動の再現及び解析が可能であるということを講演で明らかにする旨の講演骨子を簡略に示したものであるが、ウイルソン・コーワン模型からファンデポール方程式が導かれる解析内容や非線形微分方程式(ファンデルポール方程式)及びパラメーター制御の実質内容については全く触れていないものと認められる。
2 文献Aが、原告が昭和五一年八月にオタワの国際ME学会で行った講演の予稿集に登載され、ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導かれる過程を論じたもので、神経活動の不応期の効果を考慮するとヴォルテラ項が出現することから、簡単化された方程式は一般化されたリエナール型微分方程式或いは一般化されたヴォルテラ型微分方程式の形式に分類されることを指摘し、それらの最も簡単な場合にはファンデルポール方程式に帰着することを明らかにしたものであることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第四号証によれば、文献Aは英文の学会発表用の小論文形式のものであり(末尾にフランス語のレジュメがついている)、ウイルソン・コーワン模型の非線形連立微分方程式を簡単化してテーラー展開しファンデルポール方程式を導き出す過程を数式をもって説明し、その最後の部分で一成分の場合と三成分の場合におけるαリズムと誘発電位の波形を図示したものと認められる。
3 文献Bが、原告が同年一一月に福岡の日本脳波・筋電図学会で行った講演の予稿集に登載された予稿であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第五号証によれば、文献Bは日本語で書かれたもので、抑制性と興奮性のニューロン集団の活動をファンデルポール方程式にしてこれを解析し、脳波を分析しようとすること、神経モデルとしてのウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導き出せること等の講演項目が簡略に記載されているにとどまり、方程式の内容や導出の過程については全く記述がないものと認められる。
4 文献Cが昭和五二年四月に鹿児島の日本生理学会で行われた講演の抄録であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第六号証及び被告本人尋問の結果によれば、文献Cは、オン・オフ(On・Off)光刺激による誘発電位の実験結果の解析の結論のみが記載されたものであり、実験内容やその解析の方法・内容については全く記述がないものと認められる。
5 文献Dが、原告が昭和五二年四月に東京の日本ME学会で行った講演の抄録であり、文献Eはその学会講演の可否を決める審査用原稿であること、文献Dの前半が、文献Aと同じく、ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導かれる過程を論じたものであり、後半は、空間相互作用をもつウイルソン・コーワ方程式から拡散項が導出できること、大脳皮質の視覚野のモデルに対してはフィッチュー・南雲方程式が導き出せること、投射経路のモデルに対しては空間の一階微分項を含むコルモゴロフ方程式が導き出せることを示したものであることは、当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第七、八号証によればこれらは日本語による学会発表用の小論文形式のものであり、抑制性と興奮性の二種類のニューロン集団の力学を定式化したウイルソン・コーワン模型から、いくつかの条件のもとに簡単化してファンデルポール方程式を導き出す過程を数式を掲げて記述し、さらに、空間相互作用をもつウイルソン・コーワン模型を非線形微分方程式の立場から解析してフィッチュー・南雲方程式と同一の結果を導き出せることを数式を掲げて記述しているものであるが、計算機実験の経過、結果の記述はないものと認められる。
6 文献Fが、原告が昭和五二年七月に箱根の「性格・行動と脳波」研究会で行った講演の抄録であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第九号証によると文献Fは日本語で書かれ、興奮性と抑制性の二種類のニューロンからなる神経回路網モデルから平均活動度がみたす非線形微分方程式を導き、脳波(特にαリズム)との関係を論ずる等の講演骨子が記載されているにすぎず、論証の記述はないものと認められる。
7 文献Gが原告が昭和五二年九月にアムステルダムの国際脳波学会で行った講演の抄録であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一〇号証によると、文献Gは英語で書かれ、ウイルソン・コーワン模型から非線形微分方程式を導くこと、空間的に局在する神経集団が単一の特異点をもつとき模型の基礎方程式は活動が低い水準にあるか、高い水準にあるかによって、フィッチュー型あるいはヴォルテラ・ロトカ型の非線形連立微分方程式に還元され、前者は不安定な特異点を一つもつときファンデルポール方程式になること、ファンデルポール型あるいはヴォルテラ型の方程式のリミットサイクル振動はαリズムのペースメーカーに対応するものと考えられること、空間的に分布して相互作用する神経集団の一次元模型は南雲型の非線形偏微分方程式を生み出すこと、二次元投射形への拡張はコルモゴロフ型の非線形偏微分方程式を生み出すこと等を論ずる旨の講演の骨子が記載されているにすぎず、論証過程の記述はないものと認められる。
8 文献Hが昭和五二年一一月にロサンゼルスの医学生物学工学会議で行われた講演の抄録であり、(1)空間相互作用をもつウイルソン・コーワン方程式を簡単化してフィッチュー・南雲方程式を導き出すことを内容としていることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一一号証及び原・被告各本人尋問の結果によると、右会議には当初被告が本件共同研究を代表して出席して発表する予定で、文献Hの原稿も被告が執筆作成したものであるが、被告がイギリスへ留学したため、原告が代わって右会議に出席して学会発表をしたものであり、文献Hは英文で書かれ、右争いのない(1)の内容のほか、(2)フィッチュー・南雲方程式からはリミット・サイクル振動をする波動群を表すときの包絡線方程式を導くこと、(3)脳波活動の振幅のゆっくりした変調は包絡線方程式の性質で説明できること等を明らかにした学会発表用の小論文形式のものであるものと認められる。
9 文献Iが、【A】が昭和五二年一一月に仙台の日本脳波・筋電図学会で行って講演の予稿集に登載された予稿であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一二号証によると、文献Iは日本語で書かれたもので、種々の照度の連続光刺激に基因する誘発電位の測定結果から光刺激強度と誘発電位との対応関係を考察すると、誘発電位のLatency及び振幅に有意差が認められ、生体の刺激受容プロセスの解明に役立つと考えられること等の講演の骨子が記載されているにとどまり、その内容まで記述したものではないものと認められる。
10 文献Jが原告が右と同じときに右学会で行った講演の予稿集に登載された予稿であることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一三号証によると、文献Jは日本語で記載され、興奮性と抑制性の二種のニューロンからなる神経回路網モデルから非線形微分方程式を導き、脳波(特にαリズム)との関係を論ずる等の講演の骨子を記載したにとどまり、その内容まで記述したものではないものと認められる。
二 文献@ないしJの著作物性
 そうすると、文献ADEHは、原・被告ら五名の共同研究の成果をその時々において取りまとめた学会発表用の小論文形式のもの及び審査用原稿、文献BIJは原・被告ら五名の共同研究に基づく学会講演の予稿、文献@CFGは原・被告ら五名の共同研究に基づく学会講演の抄録であり、文献@ないしJはいずれも思想を創作的に表現したもので、学術の範囲に属するものといえるから、原・被告ら五名の研究から生じた共同著作物で、原告は共同著作者としてこれらにつき著作権を他の四名とともに共有し、著作者人格権を有しているものと認められる。
 もっとも文献@BCFGIJは講演の内容そのものを記述したものではなく、単に講演の骨子だけを示した予稿あるいは抄録に過ぎないので、著作権の対象はその簡略な記述そのものに限定されざるを得ないが、いずれも書面に記載された学術の創作的表現であるから、その限度で著作権が発生することは否定できない。
 なお、講演自体も著作物性をもつが、右各講演の内容そのものは記録されておらず、甲第三六号証が文献Aに関するオタワの国際会議での講演の台本であるほかは、右予稿、抄録以外のことは明らかではなく、本件においては講演自体の著作権は審理の対象となっていない。
三1 被告は、原告が著作権の保護対象として「ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式等の偏微分方程式を導き出すアイデア」を主張していると解した上で、アイデアは著作権の保護対象とはならないと主張する。
 しかし、原告が本件において著作権の保護対象として主張しているのが文献@ないしJに表現されたものであって単なるアイデアではないことは、前記原告の主張自体から明らかであるから、被告の右主張は失当である。
2 ところで、著作権が保護対象としているのは、「思想……を創作的に表現したもの……」(著作権法二条一項一号)であって思想それ自体ではないが、科学研究の著作物は、一般に、ある主題を設定し、その主題につき理論或いは実験結果に基づき論証の筋道を分析・総合して構成し、これを言葉・文字・数式等によって表現して成るけれども、その性質上文学作品等とは異なり、言葉・文字等の表現手段の用法には余り創作的個性がないのが通常である(数式も、既成の方程式等は言葉や文字などと同じ表現手段の一つにすぎない。)反面、論証の筋道の構成が著作者の創作性を示すものとして重要な地位を占める。
3 したがって、科学研究の著作物について著作権侵害の有無を判断するにあたっては、単に外形上の表現の異同を検討するだけではなく、表現された内容の実質的異同をも検討しなくてはならない。4 そこで、以下においては、以上の見地にしたがって、第一、第二論文が文献@ないしJの著作権を侵害するものであるか否かを検討する。
第三 被告の第一、第二論文について
一 請求原因三項1の事実は当事者間に争いがない。成立に争いのない甲第一、二号証によると、第一、第二論文とも英文で作成されているものと認められる。
二 第一、第二論文発表の経緯
 成立に争いのない甲第二八号証、同第三〇、三一号証、乙第二八号証、被告本人尋問の結果によって成立の認められる乙第二二号証、同第二三号証の一、二、同第二九、三〇号証、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨によると、被告は、原・被告ら五名の共同研究によって空間分布のない興奮性及び抑制性の神経集団のウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導くことができることが解析され、文献ADH等で公表されたあと、さらに空間分布のないウイルソン・コーワン模型から興奮性及び抑制性の神経集団が複数の場合にも結合ファンデルポール方程式が導出できることを解析し、これらのことを第一論文にまとめ、原告の了解は求めないまま自己の単独名の著作として、西ドイツのバイオロジカル・サイバネティクス誌に投稿し、レフリーの閲読(その分野の専門家による査閲)を経て昭和五五年六月一六日受理され、同誌三九号(一九八〇年)に掲載されたこと、これとは別に、被告は空間分布のある興奮性及び抑制性の神経集団のウイルソン・コーワン模型から拡散項を導出し、フィッチュー・南雲方程式が導けることを解析し、イギリス留学中の昭和五三年春ころに第二論文の基礎となった英文の手書き原稿(甲第二八号証)を野川病院に送り、原・被告ら五名の共同研究として発表することを提案したが、原告から修正意見が提出されたため、翌年ころこれに包絡線方程式の部分を付加したタイプ原稿(乙第二九号証)を作成して野川病院で原告らに示したが、中途半端であると原告から批判されたためそのときは公表に至らず、昭和五六年一〇月の研究会解散後第二論文の原稿を完成させ、原告の了解は求めないまま【A】、【B】と三名連名で、バイオロジカル・サイバネティクス誌に投稿し、レフリーの閲読を経て昭和五八年一月二一日受理され、同誌四八号(一九八三年)に掲載されたこと、なお、第二論文の末尾の謝辞の欄には、この研究の初期の原告及び【C】の有意義な議論に感謝すること及びこの研究の一部は著者らが原告、【C】と共同研究をしているときに開始されたものであるとの記載がなされていること、以上の事実が認められる。
三 第一論文の内容と著作権等の侵害の成否
1 成立に争いのない甲第一号証と、同第三ないし一三号証とを対比すると、次の(1)ないし(6)の事実が認められる。
(1)第一論文は、その要旨冒頭において、「興奮性及び抑制性の神経集団の力学に関するウイルソン・コーワン模型を拡張して、相互に結合したファンデルポール方程式を導いた。」と記載している。
 そこでまずこの部分の文献@ないしJとの外形上の表現の異同について検討するに、文献@ないしJにはこれと同一の表現は見当たらない。もっとも、文献Aには、ウイルソン・コーワン模型を簡単化してテーラー展開し、リエナール型の非線形微分方程式を導き出せば、その最低次の方程式はファンデルポール型になる旨の記述があり、文献Bには、「興奮性と抑制性の二種類のニューロンからなる神経回路網の平均活動度がみたす非線形微分方程式を解析して、その神経回路網の時間・空間的ふるまいを述べて、実際の脳波及び脳の情報処理について論ずる。まず、視床の神経モデルとして反回性抑制をもつ回路をつくり、それが自励振動状態(ファン・デア・ポール方程式)をとりうること。」との記述があり、文献Eには、「反回性抑制条件ae−ai〈−1といくつかの条件をおいて、@式〔註、ウイルソン・コーワン方程式のこと〕からファン・デア・ポール方程式を導いた。」との記述があり、文献Gには、「大脳皮質と視床の神経組織に対するウイルソン・コーワンの数学的模型(Kybernetik 1973年)から、それを近似する非線形微分方程式を導いた。」との記述があり、文献Hには、「この論文では、興奮性及び抑制性の神経集団の力学に関するウイルソン・コーワン模型からいくつかの簡単化した微分方程式を導く。」との記述があり、文献Jには、「興奮性と抑制性の二種のニューロンからなる神経回路網モデルから平均活動度がみたす非線形微分方程式を導き、脳波(特にαリズム)との関係を論ずる。」との記述があるが、いずれも、第一論文と表現形式は同一ではない。
 さらに、第一論文の表現と右認定の各文献の表現との実質的異同について検討するに、右各文献は一成分の興奮性及び抑制性の神経集団を取扱ってファンデルポール方程式を導き出そうとするのに対し、第一論文はその記載から明らかなように、多成分の興奮性及び抑制性の神経集団の修正されたウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式を導き出す記述であり、両者の表現は実質的にも異なっている。
(2)第一論文は、序説の後半の三分の一の部分で、「神経集団の適切な模型から結合振動子系を導きだせることを指摘することは価値がある。……非線系回路理論や生物システム理論の中ですでに確立している諸結果や方法を利用して、生理学的な変数と回路の係数を関係づければ、複雑な脳波現象でもよく理解できる」と記載している。
 そこでまずこの部分の文献@ないしJとの外形上の表現の異同について検討するに、文献@ないしJにはこれと同一の表現は見当たらない。また、文献@ないしJは結合振動子系の導出過程を論述したものではなく、両者の表現は実質的にも相違している。
(3)第一論文は、第2節「2・1基礎方程式」において、ウイルソン・コーワンの原論文の模型を要約し、「2・2簡単化」において、連立ファンデルポール方程式を導くための簡単化の手順を記載している。
 第一論文の(1)ないし(12)式は、文献ADの各式といずれも表現形式が相違しているのみならず、数式の表現内容自体も既成の方程式を除けば同じとみられるものはない。
(4)第一論文は、「第2節」の「2・1基礎方程式」でウイルソン・コーワンの原論文の模型を要約した後、「2・2簡単化」において、連立ファンデルポール方程式を導くための簡単化の手順として、ウイルソン・コーワン方程式から、シグモイド曲線を用い、テーラー級数に展開し、連立ファンデルポール方程式を導くことを記載している。
 文献ADEHもウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導くことを記述しているが、簡単化の内容の記述が簡略で、導出の過程を数学的に論証することを目的にしていないため、同一論文と文献ADEHとは、表現の上で、形式的にも、実質的にも同一とはいえない。文献@BCFGIJには、ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導くための簡単化の手順の記載はない。
(5)第一論文は、「第5節結語」において、「この論文の主要な論点は、多数の相互作用する興奮性神経及び抑制性神経の部分集合に対する拡張したウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式が導かれることにある」と記載している。
 ウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導けることについては、すでに本項(1)で認定のとおり、文献ABEGHにその趣旨の記載があるが、第一論文の右結語の記載は、拡張されたウイルソン・コーワン模型から連立ファンデルポール方程式を導くことができることを記載したもので、文献ABEGHの右記載とは、表現の上で形式的にも実質的にも相違している。
(6)最後に、第一論文の構成と文献@ないしJの構成とを全体として比較検討するに、第一論文は興奮性及び抑制性の神経集団の相互作用を二成分の場合に限定し、拡張したウイルソン・コーワン模型から結合ファンデルポール方程式を導き、二つの結合振動子系の相互作用を数学的に解析したものであるのに対し、文献ADEH(他の文献は前記のとおり主題が記載されているだけで構成の記載はない。)は、主として空間分布のない一成分のウイルソン・コーワン模型からいくつかの簡単化したファンデルポール方程式が導き出せることの荒筋を記述したにとどまり、数学的解析の論証を目的としていないので、両者の構成は異なるものである。
2 以上のとおり、第一論文と文献@ないしJとは構成及び表現をいずれも異にするばかりでなく、主題も第一論文は文献@ないしJの主題から発展した主題を取り扱うものといえるかもしれないが、別の主題を取り扱うものといえる。
3 そうだとすると、第一論文は文献@ないしJを複製もしくは翻案したものであるとはいえない。
四 第二論文の内容と著作権等の侵害の成否
1 成立に争いのない甲第二号証と、前掲甲第四ないし一三号証を対比すると、次の(1)ないし(5)の事実が認められる。
(1)第二論文は、その「要旨」の部分において、「興奮性及び抑制性の神経系の力学に関するウイルソン・コーワン模型から、いくつかの簡単な微分方程式を導いた。」との主要な結論を記載している。
 これとほぼ同一表現の記述は、文献Hにあるが、その余の文献@ないしG、IJにはこの記述はなく、表現の上でこれと実質的に同一とみられるものもない。
(2)第二論文は、「第1節序説」の後半で、「この論文ではウイルソン・コーワン模型の簡単化を試みる。この模型はかなり包括的な事情を含んでいるが、解析的に取扱うのは困難なので、もっと取扱いやすい微分方程式の形に直すわけである。そうすることによって、神経活動の全般的な振る舞いが、微分方程式論において、すでに確立した方法によって予見できるようになり、さらには、ある特定の神経機序や脳波のもつ(生理学的)意味をもっとよく理解することができるであろう。」と記載している。
 文献@ないしJには、表現形式の上でこれと同一の記述はない。もっとも、文献Gには、「大脳皮質と視床の神経組織に対するウイルソン・コーワンの数字的模型(Kybernetik 1973年)から、それを近似する非線形微分方程式を導いた。多様な脳波現象の理解を深めるために、得られた微分方程式を基礎にして、神経組織の模型の力学を研究した。」との記述があり、文献Hには、「簡単化した方程式(2)あるいは(3)、またそれを一般化した方程式は、脳波現象の理論的並びに実験的研究において有益である。」との記述がある。また、文献DEHは、それぞれ、全体の記述からみて、ウイルソン・コーワン模型の簡単化により複雑な脳波現象を説明し、生理学的意味を解明しようとしたものであることは明らかである。しかしながら、これらの記載は以下の論述の前提となる記述にすぎないから、これだけを取り上げて表現が実質的に同一か否かを論ずることは意味がない。
(3)第二論文は、「第4節簡単化した方程式の導出」において、ウイルソン・コーワン模型の方程式の簡単化の手順を数学的に記載し、「第5節簡単化した微分方程式の例」でフィッチュー・南雲方程式と数学的に同等な連立方程式を導出する過程を数学的に記載している。
 文献DEHは、この点に関しては、表現の上で、形式的にも実質的にも第二論文と同一といえる記載はない。第二論文の(30)、(31)式は、文献Hの(2)式と表現上ほぼ同一であるが、これは既成の方程式である。
(4)第二論文は、「第7節結論」で「この論文の主要な結論は、簡単化のためのいくつかの近似の下では、空間的に(分布して)相互作用する興奮性及び抑制性の神経集団に対するウイルソン・コーワン模型は、反応−拡散型、フィッチュー・南雲型、BVP型そしてファンデルポール型などの単純な微分方程式に還元できることである。」と記載している。
 ウイルソン・コーワン模型からフィッチュー・南雲型、の方程式が還元できることは、文献DEGHにその記述があるが、これらはいずれも還元に至る手順を数学的に論証したものではないので、第二論文の表現は、形式的にも実質的にもこれらと相違している。
(5)最後に、第二論文の構成と文献@ないしJの構成とを全体として比較検討するに、文献@ないしJのうちウイルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導く記述はいずれも空間分布のないウイルソン・コーワン模型即ち微分方程式をテーラー展開という方法で簡単化しファンデルポール方程式を導くというものであるのに対し、第二論文は空間に分布した複数の興奮性及び抑制性の神経集団の相互作用を取り入れたウイルソン・コーワン模型の微積分方程式を対象として、これに独立変数を導入して簡単化し拡散項を導き、フィッチュー・南雲型その他のファンデルポール方程式に還元するというものであり、両者は主題及び構成を異にするものである。
2 以上のとおり、第二論文は一部分において文献Hと表現をほぼ同一にする部分があるものの、それ以外では文献@ないしJとは、主題、構成及び表現を異にしているものということができる。
3 そして、文献Hついては、第二論文にこれが引用されていることは、当事者間に争いがない。したがって、右引用が適正なものであれば第二論文は、文献@ないしJを複製もしくは翻案したものであるとはいえない。
五 文献の引用
1 前示のとおり、第一、第二論文とも、英文で書かれ、レフリーの閲読を経て、西ドイツの専門雑誌に掲載された科学論文である。
2 成立に争いのない乙第二五、二六号証、証人【C】の証言、被告本人尋問の結果によると、科学論文の公表(出版掲載)には、オリジナルな研究結果の最初の出版であり、その分野の専門家の閲読を経ているもので、学界内で容易に利用できる雑誌あるいは原記録であることが要請され、他方、学会・国際会議での発表や会議録は専門家の閲読を経ていないので、厳密な意味では科学論文とは認められず、このため、科学論文には学会・国際会議での発表や会議録は引用しないという慣行があるものと認められる。
 そうすると、公刊されたものであっても学会発表や会議録にすぎないものを科学論文に参考文献として引用しなかったからといって、不当視することはできない。
 文献@BCFGIJはそれ自体が論文とはいえず、文献Eは公刊されたものではないし、文献ADHも学会発表のためだけのものにすぎないので、いずれも、第一、第二論文に参考文献として引用すべきものとはいえない。したがって、第一論文に文献@ないしJが全く引用されていないこと、第二論文に文献AH以外のものが引用されていないことは、それ自体をもって違法というべきでない。
3 文献Hは第二論文に引用されているものであるが、前掲甲第二号証の記載からみて、その引用の方法は著作権法三二条の規定に適合し、適正なものと認められる。
第四 結論
 そうすると、第一論文は文献@ないしJを複製もしくは翻案したものと認め難く、第二論文も文献Hを除いて右各文献を複製もしくは翻案したものと認め難く、かつ、第二論文は文献Hを適正に引用しているのであるから、結局被告は文献@ないしJについて、原告の著作権、著作者人格権を侵害したものとはいえない。
 よって、原告の請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

京都地方裁判所
 裁判官 露木靖郎
 裁判官 井土正明
 裁判官 住友俊美


別紙一〜四(省略)
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